特集◎終末期医療の三原則《6》インタビュー
治療の中止には厳しい前提条件を
日本臨床倫理学会理事長 新田 國夫氏
2018/3/26
聞き手:本誌編集部長・大滝 隆行
1944年岐阜県生まれ。67年早稲田大学第一商学部卒。79年帝京大学医学部卒。同大学病院第一外科、救命救急センターを経て、90年東京都国立市に新田クリニックを開業。92年医療法人社団つくし会設立、理事長に就任。以来在宅医療に従事し、1000人以上を看取る。全国在宅療養支援診療所連絡会会長。2012年日本臨床倫理学会設立、理事長に就任。著書に『安心して自宅で死ぬための5つの準備』(主婦の友社)。
今回の診療報酬改定で終末期医療への評価が拡充され、多くの医師にその実施が求められている。だが安易な治療中止は、患者の生きる権利を奪い訴追されるリスクもある。その際どういうプロセスを踏めばよいのか。日本臨床倫理学会を設立し、在宅で1000人以上を看取ってきた新田氏に聞いた。
──「単なる延命はやめよう」「平穏死」という考えに共感する医療者が増えてきたと思うのですが、本人の意思を確認できない場合、家族・医療者本位の治療中止になるのを危惧します。
終末期の医療において何より尊重すべきは、患者本人の選択です。認知症などで本人が意思決定できないと思われる場合には、家族の意向などを基に判断することが多いのですが、本人の意思決定能力を評価・支援せず、安易に家族の意向に従うことは倫理に反します。
延命治療を差し控え・中止して、倫理的に適切な看取りに入るためには、「これ以上の積極的治療を望まない」という本人意思があることが大前提です。患者の意思は変化するし、本人に意思決定能力がある場合は常に自己決定する権利が保障されなければなりません。これはautonomy(自律尊重)という倫理原則、インフォームドコンセントの法理として確立しています。
本人の医療行為への同意は法的には違法性阻却事由となります。つまり、手術などの侵襲的医療行為は本来、傷害罪に当たりますが、本人の同意があって初めて違法ではなくなります。
さらに医療行為が行われるためには、選択(チョイス)が必要となります。すなわち、インフォームドコンセント・アンド・チョイスが成立して初めて医療行為は成り立つのです。
現在、家族の意思として胃瘻を抜去することがありますが、これは倫理から外れます。患者本人に意思決定能力がなく意思表明できない場合は、家族の都合で判断することはできません。適切な家族(代理判断者)が本人の価値観や願望に配慮しながら、適切な代理判断の手順を踏んで判断を行う必要があります。
──家族などの意向が本人の意思かどうか判断するのは難しそうですね。
ですので、具体的には(1)家族の意見は家族の願望なのか、それとも本人の意思・願望をきちんと反映しているか、(2)誰が代理判断者として今後の方針を決めるのに適切か、(3)家族の意見は本人の最善の利益を反映しているか、(4)家族内で意見の不一致はないか、(5)本人と家族には利益相反がないのか──などの家族による代理判断の倫理的論点があります。
それらの論点を医療・ケアチームの中で検討し、家族と十分に話し合うべきです。厚生労働省の「人生の最終段階における医療の決定プロセスに関するガイドライン」でも、患者の意思の確認ができない場合は医療・ケアチームの中で慎重な判断を行う必要があるとしています。代理判断者は本人、家族と意思確認ができている状況にあることが望ましいのですが、適切な家族の判断を誰がするのかといった課題があるのも事実です。
──終末期だからといってQOL維持に必要な治療まで中止されたり、認知症だから本人の意思確認が難しいと即断されてしまう恐れはないですか。
それはあり得ると思います。医師は医学的視点から、「本当に終末期なのか」「本人にとって治療の無益性は確実か」を考慮する必要があります。
癌の終末期はある程度コンセンサスが得られていると思いますが、癌以外では疾患ごとに終末期の定義を画一的にすることは困難です。さらには、1人が幾つもの疾患を合併していることがしばしばあり、現実にはそれぞれのケースに応じて終末期の判断をしなくてはならないでしょう。本人にとって治療の無益性が確実な場合や、本人が終末期にあると自覚している場合は、延命治療を差し控え・中止して、倫理的に適切な看取りに入ることができます。
ただし、患者本人が望む治療のゴールや残存能力によっても、「無益性」の概念は変わってきます。医学的事実だけを判断の根拠にするのではなく、本人の願望や価値観・人生観、生活状況などに配慮して、人生の満足度や生活の継続性に寄与する治療であれば積極的に行う必要があります。
認知症の人は意思決定能力がないと早計に決めるのも危険です。認知症の人の意思決定能力は病気の進行とともに変化します。軽度、あるいは中等度であれば、医療行為の内容によっては判断が可能です。それを左右するのは治療に関する説明を理解し、判断する能力があるかどうかです。
意思決定の能力があって初めて自己決定が可能となります。本人の意思決定能力が不十分だと思われる場合は、できる限り本人が自分の願望や価値観を表せるよう支援しなければなりません。
──インフォームドコンセントは日常診療の全てにおける原則ですが、終末期、特に意思が確認できない場合にはなおざりになっている気がします。
そうですね。我が国の医療においてこうした行為が徹底されないのは、医師側の法律的義務感の欠如と、パターナリズムと呼ばれる、医師に全てを任せる患者側の姿勢と医療の専門性に対する理解不足など、双方に責任があったからだと思います。
終末期において意思決定できない人に対する医療を考えると、現時点では、治療の差し控え・中止には、これまで述べたような厳しい前提条件を設ける必要性があり、それが倫理基準になるべきだと考えています。
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新田先生は在宅医療のトップかつ、臨床倫理のトップである。
言われていることは、「本人の意思尊重」である。
しかし敢えて「リビングウイル(LW)」という言葉を避けている。
それは、先日書いたように、本人の意思が変化するからだ。
そもそも、「本人の意思」とは何だろう??
常に揺れ動くものだと言うのなら、今日話し合ったことも無効になる?
いや、1ケ月前に書いたLWは無効だが、今日話し合ったことなら有効?
今、LWと本人意思との関係が議論されているのか。
その中で誰も触れていない大切なことがあると思う。
それは、「LWは本人意思のすべてではないが、確実に一部ではある」ことだ。
だからLWを補完する必要がでてきて、それがACPなのである。
つまりLWを核としてその都度「本人を中心にみんなで話し合う」ことが大切だ。
LWはACPの相反概念ではなく、ACPの核心部分なのである。
新田先生が言われていることに全面的に賛成である。
しかしひとつだけ。LWが抜けていると思うので、コメントした。
政府と日本救急医会は、「LWは悪で不要」の立場を崩さない。
表面上は「本人意思尊重」と言いながらも、本音は真逆である。
橋田さんの安楽死願望や、西部さんの自殺ほう助などが、再び話題になっている。
しかしそもそも政府が「本人意思の尊重」を否定していることは知っておくべき。
PS)
成年後見制度への沢山の書き込み、ありがとうございます。
相反する意見があることは当然だと思うので、そのままアップしています。
当たり前ですが、誠実に後見業務を遂行されている人が多いかと思っています。
しかし取り扱う対象が「認知症」や「お金」なので、トラブルがあるのも確か。
現行のままでいいとは到底思わないので、そのまま書いた。
各コメントを読まれた皆さんそれぞれによく考えて欲しい。
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