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最終電車
2018年04月14日(土)
東京発大阪行きの最終電車に乗るべく、でも時間が少しあったので
東京駅のホームを3号車から16号車までフラフラと、歩いてみた。
ホームを歩きながら何故か涙が溢れてきて、気が付けば歌っていた・・・
東京駅のホームを3号車から16号車までフラフラと、歩いてみた。
ホームを歩きながら何故か涙が溢れてきて、気が付けば歌っていた・・・
僕は最終電車が大好きだ。
そう言うときっと「最終電車で君にサヨナラ・・」という曲→こちら
マイ・ペースの「東京」という曲が出てくる人がいるだろう。
でもそんな話ではない。
でも、、少しはそんな話かも。
そこには人間の本当の姿、原型があると感じるからだ。
最終電車の東京駅のホームを描いた映画があったけど、今日はリアル。
誰も気がつかないし、見られている当事者も気がつかないけど、
しっかり見ている長尾というオッサンがたしかにそこに、いる。
そこに居る。
それだけでも凄いと思う。
昨日も今日も旅立つ人に、一応、立ち会わせてもらっている医者からすれば
「生きているだけで丸儲け(=いまる)」だと直感せずに、どこが医療者か。
恋人としばしの別れを惜しむカップルたち、
よく分からないけど来てくれてありがとう、の外国人ファミリー。
「最終電車のホーム」には、まさに「人生が凝縮」されている。
16号車にの乗ろうと並んでいたら、清掃のオバちゃん達が出てきた。
そう、これも映画になった人達だ。
私は出てくるオバちゃん一人一人の顔をじっくり「観察」する。
これまで何があって、どこで誰とどのように暮らしているの?
よく見ると混じって、オッチャンや若いニーチャンもゾロゾロ、出てくる。
この一見目立たないY染色体どもがオバちゃんたちをしっかり支えている。
「ありがとう、御苦労さま!」と掃除のオバちゃんオッサンに、
泣きながら声をかけたいが、さすがに、そこはグッと我慢した。
16号車に予約席があるのに、ドアが開くのを、今か今かと待つオッサンたち。
意味不明やなあと想いながら気がつけば俺も「そのうちのひとり」だと気づく。
そしてイザドアが開けば、席はあるのに速足で自分の席にたどりつこうとする。
意味不明だが、哀しい「精子」に見えてしょうがない。
立ちション部屋で立ちションをしていたら、向かいのトイレが空いているのに
敢えて1分もかかる立ちションのオッサンを待っているオトコの気配を感じた。
その若者はきっと「俺は座りションベンではなく、立ちションしたいんや」と
きっとその人、それなりの立ちションへの思い入れがあるに、間違いない!
どんどん湧き出る妄想をどんどん増幅させてくれるのが、「最終電車」である。
僕たちがやっているのは「ターミナル」。
でも「ターミナル」の日本語は、「駅」。
だよね。
ところで3号車から16号車までホームを歩きながら、口に出てきた曲は何だったか。
それは、中島みゆきさんの「最終電車」だった。
気がつけば、「ふるさーとへ向かう最終に」と口づさんでいた。
そうそう、間違えた。
「最終電車」じゃなかった、「ホームにて」という歌だった。
みゆきさんの歌詞はコピペできないので、
リンク貼るのでじっくり読んで欲しい。→こちら
はっきり言って深い歌詞。
深すぎる。
まさに「ホーム」とは、駅のホームであり、人生のホームであり、
家という意味での「ホーム」であり、魂の故郷としての「ホーム」。
今日は朝から「エンドオブライフケア協会の3周年記念シンポ」だった。
全国から来てくれた300人の仲間たちと勉強させて頂ける至福の時間。
最後の最後に小澤竹俊先生が、私だけでなく皆に発した質問とは、
「なぜ、どうせ死にゆく人なのに一生懸命関わるのか?」だった。
僕は反射的に、「面白いから、楽しいから」と答えた。
応えながら、「ああ、また誤解曲解されるやろな」
「難儀なことを言ってしまった」と内心、思った。
まさに僕の専売特許である、「言葉足らず」、である。
「どうせ言葉を尽くしても分かる人は分かるし、そうでない人には・・・」という声が聞こえる。
この「面白いから、楽しいから」とは、最終電車のホームを泣きながら歩く可笑しさ
であり、新幹線の掃除のオバちゃんに対する畏敬の念、に通じるところが大いにある。
今日は官邸前で「AB 辞めろ!」の、数万人に及ぶ大規模デモがあった。→こちら
正直世の中、エンドオブライフどころではなくエンドオブジャパンの日々である。
しかし国民は気がつき、自らの意思で動きはじめた。
まさに「内向きのナショナリズム」を呼び起こしてきれた、ABさんありがとう!
だからすぐに辞めないで、もう少し「永遠のウソ」をつき続けてくれよ。
医療界にもABさんのような人の痛みがわからない人が一杯いるからね。
だから俺は本を書けるし、少しは生きる価値があるのかも。
そのな中でのエンドオブライフケアは、ある意味、能天気な集団かもしれない。
しかしどちらも(政治も患者の幸福も)大切であり、まさに相似形にも思える。
さて、「涙」の理由とは。
僕は、つんくさんの「涙の影」という曲が特に好きだ。→こちら
特に「眠れなくて、涙が出るよ・・」というサビにジーンとくる。
そんなモヤモヤした日々に今日のような「ハレ」の日はいい気づきになる。
そしていろんな想いが、「ホーム」で溢れだして、「涙」がチョチョ切れる。
ただそれだけ。
年をとるということは、理由が分からない「涙」があるということ。
でも、「涙」。たったそれだけのために人は一生懸命に生きているし、
生きていけるのではないか、と想いながら、たしかに今、生きていると実感。
それ以上でもないし、それ以下でもない。
エンドオブライフケアも然り、ではないのかなあ。
PS)
なんて書いていたら、今、在宅患者さんの介護者から電話が鳴った。
まさに現実に引き戻される瞬間であるが、それでいいのだ。
そのために生きているし、そのために「最終電車」に乗っている。
人はみんな「最終電車」、だと思っている。
暗い?
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この記事へのコメント
やっぱり先生のブログは、あたたかくて和むな〜!
Posted by 小梅ちゃん at 2018年04月15日 12:15 | 返信
生きる価値? (´_ゝ`) (-.-) (=_=)
ずっと昔 高校生の頃
生きていたってしょうがない なぜ生きるのかわからない と話すと
父は 死にたければ死ねばいい 生きたければ生きればいい と言った。
晩年の父に この話をした。
「オレはそんなことを言うてたんやな・・・」
生きたいから生きている のは 何歳くらいまでなのだろう?
たぶん ある時期を境に 生かされているから生きている になっていくのだろう。
生かされている 状態を自分に許せない人は 安楽死を望むのだと思う。それを 傲慢 とは 言えないと思う。
父も安楽死を望んでいた。
私は、今の日本では安楽死はできない、と話した。
・・・父が フツーに死ねて よかった。
Posted by 匿名 at 2018年04月15日 01:57 | 返信
「涙は心の汗」という小文を読みました。
かなり昔に、ですが読みながら涙していた
記憶があります。
緊張と弛緩を繰り返す「心」= 豊な感情。
涙で洗い流しては、また真っ白なキャンパスに。
生きること= 喜怒哀楽 を描く、
「心」という白いキャンパス。
Posted by もも at 2018年04月15日 07:58 | 返信
わかります わたしは、わたしは、桜の木をみて亡くなった父と母を思い出し、そして10年以上前に亡くなった夫が年に一度会いに来てくれたような感じで、でも、満開の桜の周りでは、若い子たちがバーベキューしたり、子ども連れも家族でいっぱいで、賑やかな中にポツンと自分だけ時間が止まったような感覚で、気が付くと勝手に涙があふれてきて。だんだん涙腺って弱くなっていくんですんね(´ー`)
Posted by 匿名 at 2018年04月15日 11:58 | 返信
滅茶 暗いです ・・: ☆彡因みに歌ったのは堀内孝雄ですか?
Posted by 薬剤師 井澤康夫 at 2018年04月15日 07:41 | 返信
暗い!?けど、気持ちはよくわかるような気がします。
前を向いて生きていくこと以外に何もできない。
でも、それが『生きること』なのかな?
よくわかりませんせんが、…。
Posted by K-mira at 2018年04月16日 10:10 | 返信
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