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8割の医療者は平穏死を見たことがない

2018年07月30日(月)

毎日が病院医療との見えない、そして静かな闘いである。
患者さんを利するためには、病院のやり方が間違っている時は
患者さんや家族に丁寧に、時には2時間もかけて説明しないと。

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痩せこけて、腹水パンパンの末期がんの患者さんに
1日2リットルの高カロリー輸液をして帰ってくる。

患者さんが長尾クリニックを希望しても、地域連携部が
「あそこには紹介できない」とストップをかける時もある、そうだ。

なぜそれを知っているのか。

患者さんが「長尾クリニックを希望しても握りつぶされた」と教えてくれる。
あるいは、「そんなに診て欲しければ自分で勝手に頼みに行きなさいと」も。

こんな地域連携のスタッフがいると聞かされると、正直、辛い。
こうして病院のやり方を非難している訳だから、腹も立つだろう。

しかし患者さんの希望は聞かないどころか、利害関係何だろうが、
希望とは真反対のところに紹介する地域連携も、どうかしている。

「嫌われる勇気」という言葉がいつも頭にある。勇気づけられる。
患者さんのためになるのであれば、嫌われてナンボが町医者の魂。


ズバリ、
8割の医療者は平穏死を知らない、と思う。

正確には一度も見たことがない。
だから、話を聞こうともしない。


「きらめきプラス」という雑誌の8月号で、「平穏死」についての
特別寄稿を依頼されたので、そのあたりのことを書いてみた。→こちら


ああ、また嫌われる。
いや、もっと嫌われよう。


@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@


きらめきプラス8月 「平穏死とは枯れること」 長尾和宏 
 
「平穏死」とは枯れること
 「平穏死」とは何か。ひとことで言うと、最期を自然な経過に委ねること、そして穏やかな最期を迎えることです。平穏死は自然死や尊厳死とほぼ同義語です。しかしより正確に言うと尊厳死は、延命治療の非開始のみならず延命治療の中止、たとえば今行っている胃ろうを中止するといったケースも含めたやや広い概念です。
 しかし尊厳死と安楽死の区別がつかない医療者もたくさんいるのも現実です。尊厳死とは、終末期だと判断されたらそれ以降は不必要な延命治療を差し控える一方、痛みを取る緩和ケアは十分に受けて、人間の尊厳を最期まで保ちながら命を終えることです。一方、安楽死は、まだ終末期ではない段階で医師が直接注射する、あるいは医師から処方された致死量の薬物を自分で服用して死ぬことです。後者は医師がほう助する自殺です。安楽死は医師が人為的に死期を早める行為です。
 平穏死を単純に言えば「枯れて死ぬ」ということです。枯れるとは、つまり、体内の水分含量が減っていくということです。人間は生まれたときには体重の約8割を水分が占めています。それが成人すると6割に減り、高齢者になると5割になると言われています。そして平穏死寸前には4割にまで減ります。人生とは水分含量の観点から言えば8割から4割へとゆっくりゆっくり減っていく、まさに「脱水への旅」なのです。
 平穏死に至る経過のことをよくみずみずしい柿と干し柿にたとえて説明します。年を取るとともにゆっくり干し柿になっていくことは実は素晴らしいです。なぜなら、枯れた状態のほうが弱った心臓に負担が少ないからです。心臓も80年間休むことなく動き続ければ、当然疲れています。どんな人でも潜在的に慢性心不全状態にあります。そこに多くの水分が入ってくると心臓の仕事量が増えるため心不全の傾向になります。しかし水分量が少ないと心臓にかかる負担が少なく心不全傾向にならなくてすみます。つまり干し柿のほうが心臓がずっと長持ちするのです。
 エネルギー効率の観点から見ても病気の種類を問わず、人生の最終段階が干し柿になることは合理的であるとさえ言えます。高齢になるとそもそも運動量が減り、エネルギー需要も減ります。そして、倹約遺伝子が働き、エネルギー効率が良くなります。そうなると、それほどカロリーも要りません。逆に、過剰なカロリーを補給すると余計な活性酸素が発生して寿命が短くなります。だから終末期以降は過剰な栄養補給もマイナスになります。年とともに徐々に痩せて枯れることは極めて自然なことで、苦痛緩和の観点からは「恵み」。平穏死の観点からは「終末期における脱水は友」です。
 
患者さんが教えてくれた
 私は医師になって11年目の勤務医時代に平穏死に気がつきました。ある末期の食道がん患者さんが教えてくれたのです。すべての延命処置を「やりません」と、キッパリ拒否したその患者さんは、もはや固形物は食道を通過しません。1日にコップ1、2杯の水をゆっくりゆっくりと飲むだけ。通常、食べられなくなったら高カロリー輸液で栄養を行います。私もそれを勧めました。しかし点滴を拒否されました。すると予想に大きく反して、1カ月経っても2カ月経っても、患者さんの様子はあまり変わらないどころか少し元気になりました。院内をウロウロと歩き、ボランテイア活動を始めるくらい元気でした。そして延命治療をやめてから約3カ月半後、2~3日だけ寝ついて、特に痛みもなくスッと亡くなられた。
 もちろん当時は、平穏死なんて言葉はありませんでした。しかし、今思い返すと、その患者さんが、初めて私に平穏死というものを教えてくれました。余計な医療を控えることでこんなにも穏やかにスッと逝ける、と。逆に言えば、末期がんの患者さんを苦しめていたのは、自分だったのか――。それに気づくまで11年もかかってしまいました。しかし「平穏死」という造語の産みの親である石飛幸三先生も40年ほどかかったと聞きます。現代医療の世界に身を置いていると、単純な真理に気が付かなくなることがあるのです。
 
 
溺れ死ぬのが「延命死」
 平穏死の反対は、延命死です。延命死を一言で言えば、溺れ死ぬこと。終末期以降も不必要な延命治療を続け、管だらけになって死ぬ日本人が8割です。過剰な延命治療は大切な最期の時間をもがき苦しみ、溺れているような状態に導きます。だから酸素が用意されます。しかし酸素を吸っても苦しいため、じっとしていられないから声を上げる。声を上げると、「周りに迷惑がかかる」といって手や体をベッドに縛る。患者さんにしたら縛られるから拘束を免れようと暴れる。暴れたら、今度は最期まで鎮静させる……。と自作自演の悪いドラマが大病院やホスピスでは今だにあるそうです。市民が賢くなるしかありません。
 当院にある大病院から研修医が在宅医療の勉強に来られます。多くの医師が「長尾先生、最期は何を使うんですか?」と、ごく当たり前の質問のように聞いてきます。「それ、どういう意味?」と訊ね返すと「鎮静剤ですよ。最期はどの薬で眠らせるんですか」と当然のように質問してきます。「1000人以上家で看取ってきましたが私が眠らせたことはありません。在宅医療では鎮静が必要な人はわすかではないかな」と答えます。すると「信じられない」と驚きます。「君の病院では末期がんの人に麻酔で眠らせて最期を迎える割合は?」と聞くと、「半分です」と返ってきました。今度は私の方が驚きました。この差は、一体何でしょうか。溺れ死には苦しいから暴れるので縛り、そして鎮静剤で眠らせられる。一方、枯れて死ぬと鎮静はほとんど必要無いという現実。
 枯れて死ぬ最期と、溺れ死ぬ最期では、10kg以上の体重差があります。知り合いの葬儀屋さんも、「自宅で亡くなった人のご遺体は軽い。でも病院のご遺体は重い」と証言しました。年配の病理医もこう証言しています。「昔のご遺体は、大学病院でも枯れていた。だから、ご遺体を解剖台に乗せてメスを入れたら、パッと臓器を取り出すことができた。しかし最近の大学病院のご遺体は、メスを入れたら水が飛び出して、臓器がふやけた状態で水の中に浮いている」と。
現代は、枯れることが難しい時代です。8割の人が病院で最期を迎えているのでなかなか枯れさせてもらえません。しかし平穏死の啓発の甲斐あって枯れることの効用を知っている医療職も増えてきてきました。しかしある大学病院で平穏死について講演をしたら「うちは大学病院ですから、死ぬときに点滴がついていないことはあり得ません」と病院長から断言されました。その病院長から「君の話は理解できない」と言われました。その人はおそらく平穏死を見たことがないのでしょう。見たことも聞いたこともない話はお医者さんでも信じてもらえません。いやお医者さんだから、かもしれませんね。
 
酸素10リットルと酸素不要の差は
 枯れた最期が、苦痛が少ないだけではなく実は長生きできるということは、あまり知られていません。肺がんのケースで説明しましょう。大病院からの紹介される末期の肺がん患者さんはたいてい酸素5~10ルットルをつけて家に帰ってきます。一方、外来から自然に在宅医療に移行した肺がん患者さんは、死ぬまで酸素が不要の人が大半です。
同じ肺がんという病気で、なぜ、こんなにも最期の姿が違うのでしょうか。病院から紹介される患者さんは、実は1日2ルットルの高カロリー点滴に繋がれているので枯れていないのです。水分過剰なので咳や痰が出たり、胸水が溜まったりして酸素が必要、となるのです。もちろん、在宅療養に移行した人でも、当初は10リッターの酸素がついたままでも、徐々に枯れていくにつれて、咳や痰が少なくなり、痰の吸引もいらなくなり、酸素吸入が不要になる人もいます。
医学会の講演で「在宅療養の患者さんは、自然に枯れていきますから、最後まで酸素が必要ない」と言うと、肺がんの専門家から「あり得ない」と反論されました。しかし私の日常なのです。ご家族や多くのスタッフが証言者です。あるいは、胃がんや大腸がんのお腹のがんは、最終的にはがん性腹膜炎になり、あちこちに癒着ができて腸閉塞に至ることがよくあります。すると口から便が出てくるので、鼻から吸い出しの管を入れます。当然最期まで食べられない、のが病院勤務医時代の私のかつての常識でした。しかし「枯れる最期」を知ってからその常識は完全に覆されました。利尿剤を使いながら自然な経過に委ねると、腹水は抜かなくてもゆっくり減少するのです。口から食べられないからといって、すぐに点滴で栄養を入れるのではなく、数日間待つことで、自然と腸管内の貯留物も減少します。消化管の浮腫も改善され、ぜん動運動が少しずつ出てきます。そして肛門からガスや便が多少でも出るようになり、少しですがなにかしら食べられるようになります。100%の通過障害ではなくなります。食べられない、脱水状態だ、栄養不足だからと言って高カロリー栄養を終末期の患者さんに続けていると、腸管の浮腫も腹水も腸閉塞も永遠に改善しません。死ぬまで食べられません。以上をまとめると、平穏死と延命死は対極の概念で、最期の姿が天と地ほども違うことを御理解頂けるかと思います。
 
終末期でも楽しめる
終末期をなんらかの数字で予測・定義することは容易ではありません。人生の終わりの病態は実に多様で医療の発達も著しいため単純な数値化は困難です。余命予測に関して絶対的な指標はありません。実は終末期という概念はかなりの幅がある相対的なものであると考えたほうがいいのでは、と提案しています。なんとなく「死が近そうだ」とはわかっても「どのくらい近いのか」は医者にもよく分からないことがあります。正直な話、私自身もこれまでに、「あと一時間で死にます」と家族に告げて、その後、三年生きた患者さんがいました。逆に、「あと三カ月」と余命宣告をした一時間後に息を引き取られた患者さんもいました。
 しかし、定義できないから「終末期」は存在しないのかというと、決してそうではありません。95%の人には終末期があります。終末期を経てから死を迎えています。なぜ「95%」なのかと言うと、5%の人は突然死するからです。事故や災害で突然命を落とす人には、残念ながら終末期はありません。あるいは急病で病院に着くまでに亡くなる人にも終末期はありません。しかし95%、つまりほとんどの人には終末期が確かにあります。しかし多くの人が「終末期がある」ということを意識しません。いや敢えて意識しないのが多くの日本人なのです。亡くなった後に振り返って「ああ、あの時が終末期だったのか」とはじめて気づくことが少なくありません。
 終末期は亡くなってから気が付いても後悔が残るだけです。リアルタイムに流れのなかで患者さんと家族が“感じて”“気が付く”ことがなによりも大事。できれば患者さん自身に言い出しっぺになって欲しいな、と思います。動物のゾウも、死期が近くなれば自分でゾウの墓場に行きます。野生の犬や猫も死期を悟ると自ら姿を消します。ならば人間も自分の死期を“感じる”ことができるのではないか。いや感じて欲しい。在宅で診ている独居の認知症の方であっても、「先生、もうお陀仏だ」「もうお迎えが来る」と言って亡くなっていかれます。半分、笑いながらですが。終末期は医者が上から目線で一方的に「宣告」するものではなく、患者さん自身やご家族が感じるものだと考えます。だから医療者は、「そろそろかなあと感じたら、正直に僕に言ってね」などと、ある程度元気なうちから本人やご家族に話しておきます。でも明らかに間違っている判断だと思ったら「まだまだと思うよ」などと説明します。患者さんの意志や自己決定を医学的・倫理的見地からアドバイスをしてしっかり寄り添うことが医療者の役割です。なにより患者や家族が終末期のことを話し出しやすい雰囲気をつくることも終末期医療に携わる医療職や介護職に求められています。
 人間の尊厳とは、「食べること」と「移動すること」です。そして「自力での排尿と排便」も大切です。仮に寝たきりになっても浣腸や摘便、オムツはできるだけ避けるか、最少の期間にとどめるべきです。こうした排便や排尿の尊厳は、「枯れる最期」、つまり「平穏死」を理解することでかなり良い方向に向かいます。平穏死は単なる死ぬ瞬間のイメージではなく、人生の最終段階の生き方そもものなのです。

我々は何のために人生を送っているのかと言えば、「楽しむため」でしょう。趣味や生きがい、人付き合い、仕事……など、楽しむものは人それぞれですが、楽しみがあるからこそ生きているのです。それは、死がすぐそこに迫っている人も同じです。在宅医療では最後まで日々の生活を楽しんで頂けるよう、いろんな工夫をします。「穏やかな最期」というと理想論と思われがちですが、「平穏死」を理解することでかなりの確率で叶うことを知ってください。
 
 
 
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この記事へのコメント

まもなく95歳になろうとしているおばあちゃんのことです
いい感じに干し柿になってきました

ご家族に気になることは何ですか…と尋ねると
「蒸しパンを2口くらいで 水分ばっかり欲しがるのよ」

これを聞いたケアマネさんは 何とかしたいと思ってしまう
これを聞いた主治医も何とかしたいと思ってしまう

お願いです
いらんことはやらんでくれ〜‼︎…と 私は心の中で叫ぶ

このいらんことをやらんでくれ‼︎…ということを
ご家族、ケアマネさん、お医者さまに伝えるって 本当に時間がかかる

治るものなら治したい…
でも
命に限りがあることを理解しよう

Posted by 宮ちゃん at 2018年07月31日 07:51 | 返信

新幹線を使って両親のもとに通っている私にとって、長尾先生のお言葉はとても貴重で励みになっております。いつもありがとうございます。

Posted by 匿名 at 2018年07月31日 11:47 | 返信

その地域連携のスタッフの方、何を根拠に、長尾先生のクリニックには紹介できないと言ったのでしょうね。おそらく、患者さんにきちんと説明できないと思いますよ。それができないのなら、無責任ですね。
そのような雑音は気になさらず、先生は先生の道を突き進んでください。
言うまでもなく、長尾先生を支持している人は沢山いますから。
先生、負けないで(^^)

Posted by 小梅ちゃん at 2018年07月31日 08:46 | 返信

29日、「死ねない」と看取り看護を続けていて、
精神的に苦しく、つい長尾先生のブログにコメントしたものです。
翌日、30日の朝、今までみたことがないほど呼吸が早くなり、
みているだけでこちらが苦しくなるような呼吸の速さ。
ヘルパーさんの朝のサービスが終わり、きれいに体をふいた後、
私と母、ヘルパーさんが全員居合わせた時、「あれ?なんか顔色が悪いかも」
「息していないかも」「え??」
みんながみつめる中、呆気なくす~っと静かに呼吸がとまりました。
先生が言われていた、干し柿状態を1か月過ごし、自分の体のすべてを使い切り、
すっといってしまいました。
先生のおっしゃる自然死を目の前で目撃してきました。
直前でも先生の本に出会えて、本当に感謝です

Posted by GM at 2018年07月31日 10:59 | 返信

私もかつては、平穏死を見たことのない医者でした。病院にいたら、ずっと知ることもなかったのかもしれません。人は、600cal.600cc/日では3か月も持たないと思っておりました。だがしかし、実際は違いました。老衰状況では、なんと、なんと、・・・・3、4 年持ちこたえてしまうのでした。胃ろうの方で嘔吐や誤嚥性の肺雑があり、やむおうえず減らしていった結果のことでした。減らしていくと、状態が安定し、再び増やすと悪化しました。気づいたら、そんな方ばかりになっていて、びっくり仰天です。誰も教えてくれない、教科書にも載っていないことです。しかし、考えてみれば、水しか飲まず、あとは家族が持ってくるアイスクリームやわずかな食べ物だけで、1-2年持ちこたえていらしゃる方も数知れず、人は、あっというまに亡くなる反面、なかなか死なないということがわかりました。ストレスなく、好きなように過ごすことが、自然の延命に繋がるんだと、学びました。そこで、平穏死を知ってしまった数少ない医者の私から、長尾先生に提案があります。医者用の老年医学の教科書の作成です。病院に勤務する専門医のほとんどが、実態を知らないと思います。教科書を作成してしまえば、違ってくるのではないでしょうか。歩く本を書かれたように、今度は医者に向けての本、教科書を期待します。

Posted by 遠い声 at 2018年08月01日 02:01 | 返信

追伸。 教科書は、今まで書かれたことをまとめてしまえば、教科書の出来上がりになると考えます。医者向けの教科書という肩書が大事です。肩書を大事にする世の中では、手段を考えねば普及しにくいと考えます。医者は学ぼうとする姿勢のある職種のように思います。医者の先生になってください。

Posted by 遠い声 at 2018年08月01日 02:32 | 返信

さらに追伸。老衰状況で、ほとんど食べられなくなって1ヶ月経ち、もうそろそろかもしれないとご家族にお伝えしていると、再びもりもりと食べ出す方、数知れず。何故だろうとずっと疑問でした。が、ある時テレビで、サーチュイン遺伝子のことを知り、納得がいきました。人は飢餓状態になると長寿遺伝子(サーチュイン遺伝子)のスイッチがオンになるというのです。死ぬその時が来るまで、生き続けようとするシステムが勝手に働いている生命は本当に凄いと思います。最期が近くなると、ハカハカの呼吸になことも死ぬその時まで生きようとするシステムが働いているわけで、その時は既に酸素が十分に脳にゆきわたらないから苦しくないように仕組まれているし、自然の摂理は本当に素晴らしいです。(ハカハカの呼吸になると大抵その日のうちですが、2、3日とか1週間のかたもいらして、人それぞれです)。というわけで、自然体でいけば平和です。長寿を生き抜けば大抵平穏死。そんな昔から続く当たり前の最期を当たり前に行えばいいことに今さらながら気づきます。長尾先生、こんなことも、教科書に盛り込んでいただけたら最高に幸せです。

Posted by 遠い声 at 2018年08月02日 01:42 | 返信

おはようございます。
6月に聖路加病院にいらっしゃった保坂隆先生の
講演を聞く機会がありました。

その時のお話の中で「残された時間は家族と本人のものであり
それをサポートする事が医療従事者としての正しい態度である」と
仰った事が印象的でした。
この地域連携部の方の対応はどうなんだろうかと
思いました。
そして私達、患者や家族側も残された時間は自分達のものとしっかり
自覚してどう過ごしたいか話し合い、その過ごし方を
尊重してくれる医療従事者を選ぶ事も大切なんだと思います。

そう考えると長尾先生はじめ小澤先生や市原先生、秋山先生達の様な
在宅医療を支えて下さっている方々は私達にとって有難い存在
だと改めて思いました。

Posted by うめ&もも&匿名 at 2018年08月07日 07:26 | 返信

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