公立福生病院(東京都福生市)で行われた「維持血液透析中止」をめぐる報道が続いている。事実関係は未解明だが、この一連の動きの中で、透析療法を行わない選択肢および一旦開始した透析療法を終了する選択肢を患者に提示することは倫理に反するかのような報道もみられる。透析療法を行わない選択肢の提示は倫理に反するのか、臨床倫理の専門家である東京大学の会田薫子氏に聞いた。
毎日新聞に端を発した透析中止に関する新聞報道に、大きな違和感を覚えます。このような報道が続くことで、「人工透析はやるべきもの」「やめてはいけないもの」との誤解が医療者や市民の中に広がらないかと危惧するためです。また、「死の選択」というとらえ方ではなく、「人生の最終段階の生き方の選択」ととらえてほしい。その選択の中には、本人にとって不要な治療は終了することも含まれると思います。
透析の終了という選択肢について、公立福生病院のケースを離れて一般論として、医学的観点と臨床倫理的観点に分けて考えてみたいと思います。
まず、医学的観点ですが、透析療法はその開発当時は夢の治療と考えられ、これまで多くの腎不全患者の社会生活を実現してきましたが、昨今、フレイル(加齢による心身機能と生理的予備能の低下)が進行した患者ではその有効性が疑問視されつつあります。最初に高齢者における透析の意義に疑問を投げかけ注目されたのは、2009年のNEJM誌に掲載された論文でした。同論文は、全米におけるナーシングホーム在住の75歳以上の高齢者3702人を対象に、透析導入後の日常生活動作(ADL)と死亡率を調査したものです。透析導入後、ADLは大幅に下がり、かつ1年後の死亡率は6割近いという衝撃の結果でした(N Engl J Med.2009;361:1539-47.)。この論文ではフレイルという概念には言及されていませんが、ナーシングホーム在住ということで、対象患者の多くにおいてフレイルが重度に進行していた可能性があります。
その後も同様の研究が継続して行われています。最近では、1施設におけるレトロスペクティブな解析ではありますが、透析導入患者と非導入患者を比較すると、80歳未満では透析導入により生存率が上がるものの80歳以上では有意差がないこと、また、重度の合併症を有する患者群では70歳代でも生存率の有意な改善を認めないという報告もあります(BMC Nephrology.2018;19:205.)。
これらは、透析導入による医学的なメリットが少ない、または、透析療法によるデメリットがメリットを上回る患者群の存在を示唆します。透析導入の対象群を医学的に再検討すべき時期に来ているのではないでしょうか。
本人の「透析は受けたくない」は尊重すべき
臨床倫理的な観点からすると、透析療法を行わない選択肢や、一旦開始しても終了する選択肢は患者さんに提示されてしかるべきです。本人が自分の医学的な状態と透析療法のメリットとデメリットをよく理解した上で、自分の価値観・信条を踏まえて「透析は受けたくない」と判断したのであれば、誰かに気兼ねした発言ではないことなどをしっかり確認した上で、その信条を尊重すべきだと思います。
少なくとも、患者本人が判断能力を有する場合に、本人からインフォームド・コンセントを得ることができない医療行為を医師が強制することはできません。もちろん、患者本人の気持ちの変化を汲むこと、家族の心情への配慮もとても大切です。
私たちは透析療法に携わる看護師や医師と研究班を作り、『高齢者ケアと人工透析を考える ― 本人・家族のための意思決定プロセスノート』(医学と看護社、2015)という書籍を発行していますが、その中で、腎不全の治療選択として、血液透析療法、腹膜透析療法、腎移植という腎代替療法だけでなく、「透析療法を行わない=自然にゆだねる」も選択肢としています。「透析療法を行わない=自然にゆだねる」選択肢では、医療行為を何もしないのではなく、透析療法以外の治療法、つまり、薬物療法や食事療法、生活管理を行って、QOLを優先した療養生活を送っていただくことを提案しています。その場合、穏やかな最終段階の実現のために、呼吸困難や高カリウム血症、吐き気・嘔吐などへの緩和ケアも必要ですので、それらのケアについても併せて解説しています。
「透析中止で20人が死亡」報道が遺族にもたらすもの
一連の報道の中には、透析を行わずに死亡した患者さんが20人ほどいたというものもありました。このような報道をするメディアの方々には、「この記事を読んだ遺族がどのような心境になるか想像してみたことがありますか?」と問いたいです。
このような報道を読んだ遺族は、間違ったことをやってしまった、本人をひどい目にあわせたと後悔し、悩み、その結果、うつ病を発症してしまうことだってあり得るでしょう。もしそうなってしまったとして、その責任は誰が取るのでしょう。
20人の患者さんについてまとめて「透析中止」と報道することには意味がないだけでなく、誤解の基になるので有害だといえます。患者さん一人ひとりにおいて、どのようなプロセスを経て透析の終了に至ったのか、記事からは何も分かりません。そもそも、医学的な適応がなくなっていたのかもしれません。重視すべきは、患者本人の医学的な状態と透析終了に至るプロセスがどのようなものだったのか、本人の意思を十分尊重できていたか、患者が意思決定するための支援を医療者側がきちんと行えていたかです。
「必ず透析を受けるべき」という主張は医療における父権主義(パターナリズム)です。現在は、患者本人と医療者が共同で意思決定する共同意思決定(SDM: shared decision-making)の時代なのに、その流れに逆行し、患者は必ず治療を受けるべきと医師が決める時代に戻すような報道は、バッド・ジャーナリズムです。
今回の報道を受けて日本透析医学会が病院を調査すると聞いています。また、もしかしたら既存の提言を改訂することもお考えになるかもしれません。その際は、患者の意思決定支援におけるプロセスをより重視していただきたいです。患者の選択肢を狭めるような方向に舵を切ることのないよう、応援したいです。
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毎日新聞はしっかり自己検証すべきだと思う。
国民に正しい正しい情報を届けるのが新聞だ。
福生病院の過去四年間の
・透析導入率=87%
・透析完遂率=96%
調査すべきは、福生病院以外の透析医療機関であり
それを取りまとめている日本透析医学会、だと思う。
この記事へのコメント
ワタシは医療関係者でもなく報道関係者でもない一般市民です。
ワタシは医療行為を受けない権利が誰にでもあると思います。
ゆえに、透析を受けない権利を、医者が患者に提示することに反対はしません。
しかしながら医者が
「透析は延命治療だよ、透析しなければな死ぬってことはもう終末期なんだよ、だから透析を受けないで死ぬ選択肢もあるよ」と説明するのと
「透析を続けてもそれほど楽にはならないるかもしれない、だから透析を止めたければ止めてもいいけど、止めるのはいつでも止められるから、もう一度よく考えて・・・」と説明するのと、
患者は受け取り方が真逆になる、と、ワタシは思う。
Posted by 匿名 at 2019年03月19日 03:27 | 返信
長尾先生はマスコミの対応ばかりを批判なさっている印象が強いですが、
医療者側がきちんと詳細を説明しないことは問題がないのでしょうか?
医療者側が「医者のやることに口を出すな」「医者がやることは正しい」「医療行為の情報を提供する義務はない」と説明責任を果たさない故に報道側が「ひとまとめ推論的な見出し」になったのではありませんか?
医療行為の詳細情報は個人情報に該当するのでしょうか? であれば医療行為の内容を外部へ語るためには患者家族の承諾が必要となるのでしょうね。しかし個人名を出さなければ問題ないように思いますが・・・
20数名の方が透析を受けずに亡くなられた「医者と患者の話し合いの過程」は「白い巨塔の中」だけの秘密・・・やっぱり、医療不信が増すだけです。
私は、医療行為を受けない権利はどのような場合でも誰にでもあると思います。問題は、その結論に至った医者と患者の話し合いのプロセスであります。
Posted by 匿名 at 2019年03月19日 03:42 | 返信
福生病院「透析離脱」事件についての論評に、さまざまな違和感がある。
IOCの会長や加計学園、日大の理事長、アヘ側近たちが記者会見から逃げ回るように、当該病院側は逃げ回る。「公立福生病院は悪くない」の声援に応えて、堂々と「医療的見地」を披歴すべきである。
調査を受けているのでコメントは差し控えたいというのは、捜査を受けているので答弁を差し控えたいというアヘ官僚たちと変わらない。これでは「擁護派」も、困ってしまう。
上廣財団講座の特任教授は、「バッド・ジャーナリズム」を父権主義の復活というが、こういうのをお門違いという。
自称科学者なら、まず「事実」から出発すべきだろう。憶測やフェイクから出発すべきでない。こういうのを「バッド・アカデミズム」という。
マスメディアを批判したいなら、昨今の「皇位継承」「元号騒ぎ」狂奔に象徴されるマスメディアのジャーナリズム精神の欠如を、根底から批判してもらいたいものだ。
福生事件論評で不可思議なのは、「死者の声」が完全に排除されていることである。
狭い「業界」の身内意識がしゃしゃり出て、露わになり過ぎだ。
素人目にも、「シャント」ひとつとってみても、六段階の第一段階の詰まりで、あれかこれかの二者選択、即「離脱」誘導というのは、とても理解できない。診療所医師の見解も聴きたい。
付き合い30年の男性。その手記を一気に読み進むことはできなかった。
誘導された女性の立場であったなら、ぼくはどうしたであろうか。
誘導に従うか、誘導を跳ね返すか。
誘導に従うことが、「尊厳死」とはとても言えない。
そんな「尊厳死」なら、「尊厳死」という言の葉を死語にしなければならない。
Posted by 鍵山いさお at 2019年03月19日 03:08 | 返信
「意思確認書で同意した治療方針を変更できることを説明しておらず、患者の意思決定に関するルールが適切に整備されていなかったことも都が確認したという。」
https://yomidr.yomiuri.co.jp/article/20190319-OYTET50007/
私は(治療しないと病人を増加させる感染症を除いては)医療を受けない権利は誰にでもあると思います。
同時に、医療を受ける権利も、誰にでもあると思います。
公立福生病院は同意書を盾にとって、患者が意思表示を撤回し医療方針を変更する可能性を奪っていたのではないか? 理由は、単に話し合うのがめんどくさかったからでしょう。それよりも次から次へとやってくる「手のかからない患者」にベッドを開けた方がラクだからでしょう。
この「事件」、報道してくれたマスコミに深く感謝します。
Posted by 匿名 at 2019年03月20日 01:37 | 返信
以前コメントさせていただきましたが、透析の非導入を選んだ方の在宅療養にかかわらせていただきました。
正直「死にたいんやったら、看護師いらんやろ?」と思った位、自分自身辛かったです。
今回の問題も、医者や患者どっちが悪いとかの枝葉の部分の問題ではなく、治療は辛いけど、明日も生きていこう!と
思えない社会なんだろうか?と悲しくなります。
私は、今後再度同じような依頼があれば、辛いけれど頑張って受けます。そして、どんな明日だったら生きていってくれるのか・・?考え続けたいです。
Posted by ㇽナース at 2019年03月20日 05:57 | 返信
私は、現在のマスコミによる、福生病院への偏向報道に本当に辟易しています。
正義感ヅラらした馬鹿マスコミ、正義感ぶった馬鹿ブロガー
彼らは もちろん病気に対する知識もなく ただネットで情報を拾って つまらない報道をおもしろがって拡散しているだけです。
僕は、福生病院にもう、6年も通う人間です。
彼らは、福生病院に通う多くの人のことを考えたことがあるのでしょうか?
そんなくだらない報道をすべきよりも、病気になるべくかからない、なったとして進行を抑えるなどの情報を
良識あるマスコミに望みます。
尚、私は、BNP1994,EF16,血糖値1748,eGFR3.9を乗り越えて、福生病院のおかげで、社会復帰までしています。
Posted by なき at 2019年03月20日 08:57 | 返信
なき さん へ
私はブロガーでもなくマスコミ関係者でもない一般市民で、日本尊厳死協会会員です。
私がこの「事件」に関心がある理由は、公立福生病院における患者からの申し出による透析中止および不開始が、果たして「真に患者の自主的な選択によってなされた」のであろうか、という疑問があるからです。
ならびに、ひとたび中止あるいは不開始を選択したとしても、後日考え方が変わった場合には、継続あるいは開始されて当然と考えます。
しかし、どうやらどちらも極めて疑わしい。
この「事件」に関しては、透析中止へ傾くように医師側の誘導があっただろうと私は推測しています。
同時に、ひとたび、透析中止あるいは不開始に同意書を書くと、患者がそれを撤回したくても医療者側は聞く耳持たぬ状況であった、と私は推測しています。
なき さん のように、若くてまだ重症ではない方をたくさん助けるために、高齢者や若くても重症の患者さんには、透析中止あるいは不開始を選択するような「誘導」が、明文化ではなく「言外の意」として行われていたと、確信しています。
そしてこの問題は、たいへん奥が深い、深刻な問題でもあります。
根本原因は政策の失敗なのでありますが、年金や医療費は確実に不足している、一方で医療技術は進歩進化している、高額な薬もどんどん認可せざるを得ない、ますますカネがかかる・・・透析にも多額の医療費がかかります。・・・だったら、「透析すればもう少し生を楽しめるかもしれないが」老い先短い老人には透析を遠慮してもらう、頸部の血管から透析しなければならない状態の患者には透析を中止してもらう、その分、なき さん のような若くて社会復帰できる患者をたくさん救える・・・
この構図は、まさしく楢山節高の世界であります。ご存知ないですか?
ウィキより抜粋
『楢山節考』(ならやまぶしこう)は、深沢七郎の短編小説。民間伝承の棄老伝説を題材とした作品・・中略・・山深い貧しい部落の因習に従い、年老いた母を背板に乗せて真冬の楢山へ捨てにゆく物語。
昔は、食べ物が少なかったので、たとえ元気で働けても一定の年齢になれば冬山へ連れて行って置き去りにした、雪が降ってよかったな、早く死ねるから、・・・という話です。
なき さん も、年をとって社会参加できなくなったら、喜んで透析を中止しますか?
透析を続ければもっと「生きることを楽しめるかもしれない」
たとえば「出汁の効いた味噌汁がおいしい」と感じるのも、私は生きる楽しさだと思います。たったその程度の楽しみのために「生きていたい」と望んではいけませんか?
今の日本が志向している社会は、楢山節考の世界と同じです。それでよいのでしょうか?
Posted by 匿名 at 2019年03月21日 02:05 | 返信
「福生病院事件」について、読者のさまざまな意見を知ることができた。長尾先生に感謝、感謝です。
3.19読売新聞によると、「都が女性の診療録などを確認したところ、女性が入院後に透析再開を求めた旨の記録が残されていた」という。
ぼくも救急搬送時、「血栓溶解療法『非導入』という選択肢もありますよ。いったん同意したら撤回できませんよ。サインしてね。」と救急医に囁かれたら、非麻痺の手でサインしてしまったかもしれない。後悔しても「後の祭り」がありますよ、ということか。
くだんの特任教授の「医学的観点」によれば、
「透析導入患者と非導入患者を比較すると、生存率に有意差がない。」
「透析療法によるデメリットがメリットを上回る。」
くだんの特任教授の「臨床倫理的観点」によれば、
「透析をおこなわない選択肢や、終了する選択肢は、患者に提示してしかるべき。」
「患者本人の気持ちの変化を汲むこと、家族の心情への配慮もとても大切です。」
実際の場面では、患者の「意思決定支援」、または患者と医療者の「共同意思決定」とは、
患者の変化を汲まず、家族を配慮せずということであったようだ。
どんな状態であれ、いったん「同意」したら撤回などトンデモナイという「悪徳商法」。
電話勧誘販売でも、書面受領日から8日以内なら、クーリングオフできる。
「いのち」にかかわる「取引」なら、なおさらだ。
「手術は成功したが、患者は死んだ。」「誘導ではない。患者が選択した。」 これを、巷では「強弁」という。
「馬鹿マスゴミ」「偏向報道」、そのうち「反日」「非国民」と謗られるだろう。
権力のトップにあろうものが「ウソ」を言い放ち、NHKが垂れ流す。読者のだれも咎めない。
3月もまもなく通過する。いま、「馬鹿マスコミ」では、
「平成最後のなんとか」というのが大はやり。「平成の最後っ屁」まで登場する。
1945年と2019年。「天皇制」「象徴」について、「国民的議論」を沸騰させうる歴史的機会。
ところが、怪しげでおどろおどろしい「三種の神器」という私的儀式などが、「公的行事」「国事行為」に格上げされる異常事態が、閣議了解で進む。「馬鹿マスコミ」は、ストップすらかけない。
明治期の「天皇神格化」の政治過程をなぞるようだ。
歴史上存在しない「神武天皇陵」を造成するため、地元の被差別部落民から土地を奪い、追い立てた事件を思い出す。「聖あれば、賤あり」の日本社会の構造は、戦後民主主義に引き継がれた。
1945年。昭和天皇は「国体護持」のため、沖縄を「皇国」防衛の捨て石とし、また沖縄放棄の和平案を作らせた。
昭和天皇の戦争責任を不問にし、戦争の総括を連合軍に委ねた、日本人の無責任国民性。
74年たっても、受け継いだまま。なにごともなかったように、流されていく。
なにごとも首領様におまかせ。大型連休は目の前だ。
Posted by 鍵山いさお at 2019年03月21日 12:02 | 返信
太平洋戦争の戦争責任については、私もよく知りませんでした。
高齢の女性患者さんが、小さい時にお母さんが亡くなられて(お父さんの後妻が貯金を全部持って逃げたり苦労して)のちに彼女は結婚して二人男の子を生んだのに、最愛の夫を南方の戦地で亡くしたそうです。白木のお骨が送られてきたので、蓋を開けて見たが、木くずが2~3片転がって居ただけだったそうです。同じ南方んの戦地から帰ったという近所のおっさんが「ワシは、前へ進め!と号令が出た時、後ろに下がった。ワシはそれで助かった。あんたの亭主は前へ進めと言われて前へ進んだ。それで鉄砲で撃ち殺されたんや」という。
高齢女性は「猛り狂って怒鳴った」と言っていました。苦労して東洋ベアリングで働いて息子二人育て上げたそうです。その「婆っちゃ」が「私は天皇さんは戦争責任者やと思うわ」と言いました。
私はその時は戦争責任がどこにあるか、よく分かりませんでした。
最近「昭和の怪物、七つの謎」保坂正康著、講談社現代新書刊を読むと、「日米交渉に妥結の可能性が無い野であれば、日本はアメリカに対して軍事行動を起こすというのが、この年の9月6日の御前会議で決定した3案のうちの1案であった、これに対して近衛は、やはり他の2案で強調されている外交交渉に希望をつなぎ、「10月中旬」にこだわらずに外交交渉を継続すべきという主張であった。.....近衛は「支那撤兵を懇願したが、東条は、はねつけた。近衛が内閣を投げ出すことを決意する。東條ら陸軍の指導部は陸軍大将の東久邇稔彦を想定していた。そして17日に、内大臣の木戸幸一から東條へ参内するように連絡があったというのだ。東條は。天皇からその強硬策に対して注意ないし「お叱り」を受けるのだろう、と考えていたという。東條英機の秘書の赤松が宮中控え室で待っていると、東條が茫然としているだけなので「どうかされましたか」とたずねると「今、大命降下をうけた」とふるえる声で言われたので、私(赤松秘書官)はびっくりした。
木戸幸一(内大臣)は、強硬派の陸軍を抑えられるのは逆にその主導者である東條しかいないだろう、この男にこれまでの戦争を主張する政策を変更して事態に対応してもらうべきだと考えるに至り天皇にもその旨を申し出た。天皇もその奇策にうなずいた。「虎穴に入らずんば虎子を得ずだね」と漏らしたことは、歴史的にもよく知られていた。しかしこれは大きな賭けであるということも、天皇と木戸は充分に分かっていたのである。」
と言う内容で、東條英機も戦争責任があるから、絞首刑になってけれど、昭和天皇陛下にも、随分責任があるように思えました。
Posted by にゃんにゃん at 2019年03月22日 10:02 | 返信
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