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薬物療法専門医の70%に製薬企業から謝礼等

2019年09月12日(木)

エビデンスは、科学の外にある。
エビデンスはお金で買えるからだ。
それを知らないメデイアがエビデンスで叩いている。
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【プレスリリース20190912】


薬物療法専門医の70%に製薬企業から謝礼等(尾崎章彦)
 
がん薬物療法専門医の70%に製薬企業から謝礼等
大学病院やがん専門病院のベテラン男性医師に支払いが集中
製薬企業から医師への謝礼等の提供の実態調査
 
下記ファイルをご覧ください。
https://bit.ly/2lNmA3t

 該当論文:
BMJ Open
https://bmjopen.bmj.com/content/9/9/e028805
 
 責任著者:尾崎章彦(医療ガバナンス研究所)


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「エビデンスで殴る」というやり方は、なぜうまくいかないのか(現代ビジネス) - Yahoo!ニュース

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190829-00066820-gendaibiz-soci
 



「エビデンスで殴る」というやり方は、なぜうまくいかないのか

8/29(木) 11:01配信

現代ビジネス

「エビデンス」は万能か?

 SNSをはじめとするインターネット上では、さまざまな社会問題について活発な議論が行われている。特に健康や医療をめぐる話題については、さまざまな人々がさまざまな見解をもつことは当然で、それぞれの意見を交流させることは、社会全体の知識の量と質を高めていくことにも役立つだろう。

「スピリチュアル女子」をあざ笑うすべての人に言いたいこと

 しかし、極端に見解が異なる人の間で意見が衝突したり、時にはあまりにも感情的な議論が続いたり、人格を否定したり傷つけあったりするような交流が起こるとすれば、それ自体は好ましいこととは言えない。そのような交流自体が関係者の健康を損ねてしまうこともある。

 このような議論の場に足を踏み入れようとすると、まるで地雷原を歩いているような気持になる。少し遡ればホメオパチー(ホメオパシーと表記することもある)などの代替医療をめぐる議論、原発事故の放射能による健康被害をめぐる議論、最近の例で言えばHPVワクチンの接種と副作用を巡る議論、発達障害は治るのかについての議論など、今でも深刻で激しいやりとりが続いている。

 意見の相違や衝突を避けるのでもなく、かといって互いに傷付けあうのでもなく、できる限り合理的かつ冷静になんらかの判断を行い、それを社会の合意として実行していくことができれば、非常に好ましいことだろう。「エビデンスに基づく意思決定」という考えが登場してきたのはまさにこのような要請に応じてのことだと思われる。その嚆矢は1990年代初頭に登場し、その後世界を席巻した「エビデンスに基づく医療=EBM」である。

 しかし、エビデンスを持ち出せば、全てがうまくいくというのは明らかに幻想である。エビデンスという言葉を使うことによって、かえって議論が混乱することのほうがむしろ多いかも知れない。どうしてそうなるのだろうか。

「エビデンスで殴る」とは?

 SNS上で、少し前から「エビデンスで殴る」という表現をみかけるようになってきた。もしエビデンスが、ものごとを合理的に判断し合意をうるための「魔法の杖」のようなものだとしたら、「正しいエビデンスについての知識」は、文字通り最強の武器になるだろう。「私はエビデンスという正しい知識のもとに自分の意見を主張している。しかしあなたの主張にはエビデンスがない(あるいはあなたのエビデンスは間違っている)、だからあなたは私に従うべきだ」というような主張である。

 しかし、この「エビデンスで殴る」というやりかたはうまくいかないということが、多くの人の間でしだいに共通見解になりつつある。後述する通り、それは「エビデンス」というものの性質自体に深く関わっている。

 少し前になるが、SNSの世界でこんな事件があった。ある著名なアスリートのA氏が、健康に関するある書籍をSNS上で推奨する発信をした。この書籍の内容は、医療者の目から見ると、それを裏付ける科学的なエビデンスがほとんどないと見なされるようなもので、いわゆる「トンデモ本」と言えるようなものだった。

 複数の医療者がA氏に対して「この本が薦めている健康法を裏付けるような学術論文はない。つまりこの健康法にはエビデンスが全くない。あなたがこの本を推薦すると間違った健康知識を一般の人に広めてしまうことになる。やめてほしい」とコメントした。

 それに対するA氏の反論はこうであった。「私は自分で試してみて実際に自分の身体によいと実感できた健康法が書かれている本を紹介しただけである。他の人にもそれが良いと言っているわけではない。私が自分の経験を発信すること自体は私の自由である」。

 さらに続けてA氏は、「私は論文というものがどういうものか知っているし、研究論文の評価が何年かたつと変わってしまうということも知っている。なによりもエビデンスがあるからといってその効果は人それぞれによって違うことも知っている。それを全部承知の上で、私個人の経験を公表している。エビデンスがないからといって、それについて私が発言してはいけないというのはおかしい」と述べた。

 それに対して医療者側は「あなたが個人的に何を発信しても自由だが、影響力のある人がエビデンスのない健康知識を宣伝することには害がある」という主張をくりかえすばかりで、議論そのものは平行線に終わった。

 しかし、この議論自体には結論が出なかったとはいえ、このようなやりとりは決してむだではなかったように思う。なぜならば、この一連のやりとりは、それを見ていた多くの関係者が、「エビデンス」を「相手を殴る」ためではない方法でどのように使うべきかについて真剣に考えるきっかけになったように見えるからである。
 

エビデンスをめぐる議論はなぜかみ合わないのか

 A氏と複数の医療者のやりとりが、不毛な議論にならなかった理由のひとつは、A氏が終始冷静な態度で発言し、問題を指摘した複数の医療者を直接攻撃しなかったという点が大きい。一方で医療者の多くも、A氏のアスリートとしての実績には敬意を払っていた。そこでの「エビデンスをめぐる議論」は白熱していたが、非難合戦のような応酬とは異なるものであった。そのような対話の構造があってはじめて、「エビデンスをめぐる本質的な議論」が可能になったということは重要だろう。

 再度、医療者側の主張を単純化していうとこうなる。「エビデンスのないことを推奨しないでください。それは社会に対して害になります」。それに対するA氏の解答はこうである。「私はエビデンスを論じているのではなく、私個人が経験したエピソードについて述べているのです」。

 冷静に考えてみればすぐわかるのだが、この両者の主張はどちらも正しい。少なくともどちらも否定されるべきではない。ただし両者の主張がかみ合っているわけではない。かみ合っていないからこそ議論はエスカレートしがちなのである。

 医療者は「エビデンス」という一般的な情報に焦点をあてている。A氏は「エピソード」という個人の体験に焦点をあてている。だからこの議論では、互いの意見が衝突しているからというよりも、互いが違う話題に焦点をあてているためにかみ合わないのである。

 A氏が自身の発言において、「私はエビデンスのことについては十分承知の上で、自分の経験について語っているのです」と明言しているのはとても重要である。A氏が述べていることは、「EBMを知らない非専門家の見解」ではなくて、むしろ専門家以上にEBMの本質を衝いているからである。

エビデンスをめぐるバベルの塔

 エビデンスという言葉は、実は多様な意味で用いられている。もともとエビデンスとは通常の辞書にも載っている一般用語であり、「証拠」とか「根拠」とか訳されていることが多い。またエビデントという形容詞は、「明白な」「自明の」というような意味であり、そこからの連想で「エビデンス」という言葉は、「誰が見てもそれにしたがえば必ずうまくいく明白なもの」としてイメージされやすい。

 しかし、医学において用いられる用語としての「エビデンス」は、それとはかなり違った意味をもっている。医学におけるエビデンスとは、「個別の患者への臨床における意思決定に役に立つ確率論的な情報」を意味する。もちろん医学におけるエビデンスそれ自体は、確立された科学的方法論(臨床疫学)を用いた研究の成果であり、論文として公表されたものである。

 しかし、ここで重要なことは、医学におけるエビデンスは、EBMという方法論の中で利用される「確率論的な情報」だということである。どういうことだろうか。

 EBMを学んでいる医師の多くが理解していることであるが、医療は不確実性と複雑性と個別性をその特徴としている。つまり、個々の患者さんに何が起こるかは一人ひとり異なるし、それは前もって確実には分からないし、何が起こったのかの説明さえも多くの場合ひとつには決まらない。

 EBMはそこに「確実なもの」をもちこむのではなく、あくまでも医療の不確実さにできる限り挑戦しようとするものである。EBMを理解しているものは、エビデンスによって医療の不確実性が一掃されるとは決して考えていない。したがってA氏がSNSで述べた、「エビデンスがあるからといってその効果は人それぞれによって違う」という見解は、EBMを知っている医師であれば否定することのできない適切な見解なのである。

 くりかえしになるが、EBMについて訓練を受けている医療者であればこのことを当然知っている。だから、エビデンスは「それを持っていれば必ず戦いに勝てる魔法の武器」にはならない。SNS上で「エビデンスで殴る」という行動は、なによりもEBMを適切に理解している医療者にとっては採用しにくい行動なのである。

 エビデンスで個人の意思を完全に決定することはできない。私たちにできることは「エビデンスを利用すること」だけである。「Evidence cannot make decisions, people do(エビデンスが決めるのではない。人々が決める)」は、医療における全く正しい言明である。
 

それでも「過剰な一般化」は阻止しなければならない

 それでは「できるだけ有用なエビデンス」について論じることには意味がないのだろうか? そんなことはない。個人の意思決定と集団の意思決定の両方を視野に入れた場合、最も重要なことは、「個人の経験を過剰に一般化してはならない」という原則である。

 個人の経験はその人にとってはある意味絶対的なものであり、誰もそれを否定することはできない。しかし、それを一般的なものであるかのように集団にそのまま拡張しようとすることは明らかな誤りである。これについても、A氏が「私は他の人に対して、これが正しいと言っているわけではない」と述べているのは適切である。

 そこで「そうは言っても、それでは社会に対して誤解を招く」と懸念する人の気持ちもわかる。しかし、それとこれとは別の問題なのである。

 ここまで説明してきたことを言い換えると、エビデンスに基づく医療=EBMとは、個人に関する意思決定に集団から得られた情報であるエビデンスをどのように利用するかという方法論であると説明できる。

 その理由でEBMを前提にする限り、エビデンスを「裁きの杖」のように使って相手を殴ろうとするのは、賢い方法ではない。そこで求められるのは対話を通じてエビデンスをできる限り有効に利用しつつ最良の意思決定を目指すことである。エビデンスは「祝福の杖」のように有益な対話にコミットするための道具として用いられなければならない。

 一方で、集団の意思決定の方法論は実はEBMそのものではない。これは「エビデンスに基づく政策決定=EBPM」と呼ばれている。EBPMにおけるエビデンスの使い方は必ずしも定まっておらず、まだまだ課題が多い。しかし、最も大切なことは、個人の意思決定の方法論(EBM)と集団の意思決定の方法論(EBPM)を混同してはならないということだろう。が、ここでは字数の関係から深入りはしない。
 

「裁く」と「祝福する」は両立する

ここまで述べてきたような「エビデンスを利用した、個人も集団も尊重する適切な意思決定」の実例として、2018年12月に日本プライマリ・ケア連合会(PCA)が厚生労働省に提出した要望書と、医療従事者および一般の方々に向けて公表したメッセージを挙げることができるだろう。文書の骨子は以下のとおりである1
。 (1)HPVワクチンはヒトパピローマウイルスの感染率を大幅に低下させ、子宮頸がんの前がん病変の頻度を大幅に低下させるというエビデンスがある。浸潤癌の頻度を低下させるというエビデンスは現時点では不十分であるが、病態生理からの推定によって子宮頸がんによる死亡の減少を期待できる。その理由からHPVワクチンの積極的推奨を再開することを要望する。

 (2)HPVワクチンそのものとHPVワクチン接種後にまれに出現する多彩な症状との因果関係は現在のところ実証されていない。しかしこれは両者が無関係であることが実証されたということではない。

 (3)PVワクチン接種後の症状に苦しむ人たちに、ワクチンとの因果関係の有無とは関係なく「苦しむ患者は全て等しく十全なケアの対象である」との理念に基づいて、プライマリ・ケア医として真摯に診療を提供するとともに、こうした接種後の症状への診療体制整備に協力し、改善点を模索することにPCAは積極的に関わる。

 HPVワクチン接種後の多彩な症状を呈する患者さんをどう考えるか、HPVワクチン接種の積極的推奨をどうするのかについては、現在のところ未だに激しい意見の対立が続いていることも事実である。しかしPCAのこの見解の公表は、集団についての最善を目指す意思決定への努力と、個別のケアへの真摯なコミットメントは両立するということを示しているのではないかと思う。

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引用文献
1)https://www.primary-care.or.jp/imp_news/20190115.html 
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斎藤 清二



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PS)
 

明日は、読売テレビの「そこまで言って委員会」の収録だ。
今回は、「医療費削減政策」の解説者としての出演依頼だ。


本当は「お金でエビデンスを買える」ことと医療経済を
合わせて論じたいのだが、とてもそんな芸当はできないだろう。

だから、自分の想いだけでも、せめてここにメモしておこう。


千葉県の皆様へ。
明日か明後日には停電が解消するとのこと。

もう少しです。
頑張ってください。

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