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餅を詰めて死ねたら本望
2020年01月06日(月)
この正月は餅を詰めて亡くなった人はゼロだった。
しかしこれまで、何人かの患者さんが餅で死んだ。
一方、都内では何人かが詰まらせて注意報が出た。
しかしこれまで、何人かの患者さんが餅で死んだ。
一方、都内では何人かが詰まらせて注意報が出た。
東京消防庁は「餅詰め注意報」を出している。
果たして餅が悪いのか?自己責任なのか?
正月に餅を食べるか食べないかは自己責任である。
あるいは文化の問題だが、医療の責任が問われる時代へ。
トイレで亡くなっても、風呂で亡くなっても誰かの責任なのだ。
でも布団の中で亡くなったら責任を問われないのも不思議な話。
・転倒
・肺炎
・誤嚥
・窒息
・死亡、
みんなだれかの誰かの責任にしようとする現代。
もしも在宅ならば問題にならないのに。
いや、近い将来、問題にされるかもね。
話を戻そう。
施設で餅を詰まらせて亡くなったら事故か?
勝手に餅を食べてしまっても事故なのか?
仕方がない、と思うのはオカシイのか?
私が今、餅を詰めてもおそらく死なない。
しかし嚥下機能が低下した人が詰めたら死ぬかも。
健常人とそうでない人とでは、話が全く異なる。
パーキンソン病の親戚であるPSP(進行性核上性麻痺)は詰めやすいので
「餅を食べたら詰めて亡くなるかも」と何度も家族と介護士に説明する。
果たして正月にデイサービス先から緊急電話があった。(昔の話)
「長尾先生、餅を詰めて呼吸停止しています!」
すぐに家族に電話して相談した。「緊急人生会議」である。
「119番しても助からないし、万一救命できても植物状態」と。
家族も施設の介護職員も全く慌てなかった。
それは普段からシミレーションしてたから。
不謹慎かもしれないが、内心、幸せな最期だと思った。
もし自分が80歳まで生きて正月に餅を詰めて死んだらどうか。
もしも要支援程度であれば、まさに「本望」だと思うだろう。
幸せな死に方が、家族によっては一瞬にして事故に変わり、
介護裁判に発展することが決して稀ではなくなった現代だ。
だから
・食べさせない
・胃ろう
・ミトン
・身体拘束、となっていく。
というふうに、この国の医療・介護の課題は、9割がた家族の問題である。
でもひとくちに家族といっても色々いる。
・同居の娘
・遠くの長男
・遠くの兄弟・・・
そんな人たちと元気なうちから話し合うのが「人生会議」。
しかしそもそも来ないので、なかなか話もできないのだ。
いっそ「人生会議」改め、「家族会議」としてはどうか。
でも、それじゃあ、年金狙いの胃ろうがやたら増えたりして・・・
だから「リビングウイル会議」であるべきだ。と主張しているのだが
倫理の偉い先生からは「ナチスドイツ」とか「人殺し」とか言われる。
というわけで、
「ワシは正月に大好きな餅を詰めて死ねたら本望だから訴えません」
というリビングウイルを書いておくべきだ、と思ってしまったお正月
も、終わってしまった・・・・・(悲)
PS)
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この記事へのコメント
「でも布団の中で亡くなったら責任を問われないのも不思議な話。」
責任は問われるみたいですよ。
まだ死なないはずの人が布団の中で安らかに死んだら、「なぜ?」となる。
80歳でも90歳でも、ご飯だよ、と起こしに行ったら息していない!!!
「なぜ?」となる。
明治生まれの祖母は「80(歳)超えたら何があっても不思議ではない、と医者が言っていた」といつも言っていました。
そうなんです。「医者が言っていた」と祖母は言っていたのです。
今、そう言えるお医者さまはいませんよね。
それどころかお医者様は「人が死んだら原因を追求しなさい」と教えられているのですよね。
近代日本は「人が死んだら原因を追求して犯人を見つける」制度を確立した、そして
その先鋒に立って「人の死の原因を査定し文書化する」役割を担っているのが医師という職業。
お医者様が「80歳超えたら餅を喉に詰まらせても不思議はない」「80歳超えたら転んで頭を打つこともある」「誰かが悪いわけじゃない」と穏やかに処理できれば、状況は変わるのではないかしら。
医者はそうできないですよね。
医者は国家資格で働いているので国の方針に逆らえないから、「原因追求・犯人探し」することになる。
昔はよくわからない死因を「心不全」で処理できた、しかし現代では「心不全」はほんとうに心臓病があった場合だけだと。
「死因を明確化することが犯罪抑止の役に立つ」かもしれないが、「死因を明確化することが司法解剖を増やし関係者の負担を増やし心情を害することになる」、人間関係をギスギスさせる。
「80過ぎたら何あってもおかしないねん・・・」これでいいんじゃないですかね。
Posted by 匿名 at 2020年01月07日 03:30 | 返信
令和二年 あけおめです。
日本人は他人に親切...これは好意的な表現で、ですが平易に言えば "おせっかい" がなせる為
ではないでしょうか。喉に何かを詰まらせる、なんて年齢を問わずともあり得る事象なんだけれども
高齢者事情についてが、ある時期(年代)から社会的トピックになったもんだから、「旬な話題」事件
になるんでしょうね。
今日、映画を見ました。期間限定・「尾崎豊を探して」です。
生前の尾崎のセリフに、度々「死」とか「あの世」とかがありました。
映画にした作者の意図があるから、一概には言えないけれど、尾崎が「生きる」とか「死」とかを
意識していたのは、そうだと思います。刹那的な、哲学的な、繊細な思考から生まれた「詩」を
世に放って、最大限に生きていたのだと思います。
ミステリアスな死でもあったので、突き詰めた表現はできないですが、生前の彼は、歌手・尾崎豊、
を表現していたのではなく、人間・尾崎豊を生きて見せていた。その姿に観衆が共感し感動していたと
あらためて感慨にふけりました。長く生きることだけが美徳ではないと思いました。
Posted by もも at 2020年01月08日 10:14 | 返信
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