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もし関寛斎ならどうするのだろう

2021年01月19日(火)

160年前、コレラと闘った一人の町医者がいた。

関寛斎という29歳の医師が銚子の町を救った。

今こそ感染症対策の歴史を振り返ってみよう。

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2本の記事を紹介したい。

各々、一部だけ抜粋する。



● 幕末、感染症に「隔離」政策で挑んだ医師・関寛斎 →こちら

    2020.2.26(水) 柳原 三佳


「隔離」でコレラ対策に成功した関寛斎  


関寛斎は長崎に遊学する直前まで、銚子(千葉県)で病院を開業していたのですが、このとき、日本に大流行したコレラの感染対策に奔走し、「地元の銚子では死者を一人も出さなかった」という驚くべき成果を上げていたことを、今回の講演で初めて知りました。


この興味深いエピソードを語ったのは、講演者の一人である参議院議員の梅村聡氏です。自身が内科医でもある梅村氏は、なんと、関寛斎の5代目の子孫です。


日本では、幕末と明治初期にコレラが大流行し、数十万人の人が亡くなりました。  実は、佐野鼎も明治10年に大流行したコレラで死亡しており、そのときの話についは、本連載の29回目『明治初期、中国経由の伝染病が起こしたパンデミック』(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/59188)にも書いた通りです。


 関寛斎がコレラの対策に取り組んだのは、それより20年も前の幕末、安政の時代(1858年頃)のことですから、感染症に対する相当な知識を持ち合わせていたことが窺がわれます。


「大事なことは、医者が先に動くこと」

 梅村氏は講演でこう語りました。

「今でこそ、新型コロナウイルスの写真がテレビに映され、ウイルスという小さな生き物が人の身体の中で悪さをするのだということを我々は知っています。しかし、あの時代は何が原因なのかがさっぱりわかりませんでした。江戸の町では36万人がコレラで死亡したそうです。民衆がやったことと言えば、邪気を払うために豆まきをしたり、家の前に松の飾りをつけたり、獅子舞に舞わせたり、ということだったのです」


 民衆が迷信にすがる中、関寛斎はさまざまな医学書を読み込み、ある対策を実行します。それは、「病人と健康な人とを分ける」、つまり現在でいう「隔離」だったそうです。  健康な者にはきれいな水や食べ物を与え、病人の排泄物からできるだけ遠ざける。  


さらに、江戸から大量の薬を取り寄せたといいます。それは現在のマラリアの薬と同じもので、梅村氏によれば、「その薬はコレラに対してはストライクではなかったものの、炎症を抑える効果はあったはず」とのことです。


そして、関寛斎はこうも言ったそうです。

「幕府の役人に任せると、話し合いばかりしてなにも決まらない。こういうときに大事なことは、先に医者が動くことだ」  ちなみに、ドイツの細菌学者・コッホが、コレラ菌を発見したのは、このときから20年以上後の1883年です。  関寛斎がいかに凄い医師であったかが、よくわかるエピソードです。


ーーーーーーーーーーーーーーーー


2本目は今週の記事です。


● 江戸で流行のコレラから民を守ったヤマサ醤油七代目  →こちら

   1/13(水) 6:01配信  (柳原 三佳・ノンフィクション作家)



正月休みが明けて間もない1月7日、東京都内ではこれまでで最も多い2447人の新型コロナウイルス感染者が確認され、同日、首都圏の1都3県に2度目の緊急事態宣言が発出されました。  私が住んでいる千葉県もその対象となっていますが、つい先日まで「GoToトラベル」や「ディスカバー千葉」等のキャンペーンを展開し、大々的に旅行が推奨されていたことを振り返ると、『あれは何だったのか・・・』と首をかしげざるを得ません。  そうこうしているうちに、千葉県も9日にはついに、477人もの感染者を記録してしまいました。連日の報道を見ていると、医師会の危機感と政府の方針の乖離に大きな不安を覚えるばかりです。


■ 幕末の日本を恐怖に陥れたコレラの大流行  

実は、今と同じような危機が、幕末の日本でも起こっていました。  明治維新の10年前、1858年に日本中を襲った「安政のコレラ大流行」です。  このとき、江戸(現在の東京)のすぐ隣に位置する下総国(現在の千葉県)の銚子で、コレラの感染拡大を食い止め、ほとんど死者を出すことなく収束させた若き医師がいたことは、昨年2月、本連載の31回目〈幕末、感染症に「隔離」政策で挑んだ医師・関寛斎〉で書いた通りです。 (参考記事)幕末、感染症に「隔離」政策で挑んだ医師・関寛斎  →こちら


コレラ菌がドイツの細菌学者・コッホによって発見されたのは1883年ですから、当時はもちろん、病原菌の存在など確認されていませんでした。


民衆は次々と人が死んでいく恐怖を前に迷信にすがり、豆まきをしたり、家の前に松の飾りをつけたり、獅子舞に舞わせたりするしかなかったのです。  


そんな中、銚子で病院を開業していた29歳の関寛斎は、高名な蘭医に教えを請い、さまざまな医学書を読み、江戸から薬を取り寄せ、そして、隔離対策を実行します。


■ コレラから銚子を守った濱口梧陵  

さて、今回はここからが本題です。前回の記事では触れることができなかったのですが、このとき、銚子でコレラの感染拡大を食い止めたのは、関寛斎ひとりの力ではありませんでした。実際には、現在まで続くヤマサ醤油の七代目を継いだ濱口梧陵(はまぐちごりょう。七代目濱口儀兵衛/1820~1885)という実業家の後方支援によってなしえたのです。  


濱口梧陵に関しては、『稲村の火』という物語が、かつての教科書に掲載されていたので、ご存じの方も多いことでしょう。  (参考)濱口梧陵記念館「稲むらの火の館」資料室  →こちら


コレラ騒動の4年前に起こった、安政南海地震による大津波から、地元の紀州・広村(現在の和歌山県広川町)の住民を守ったという逸話は、今もしっかりと語り継がれています。  和歌山と江戸を行き来し、長年、銚子で醬油づくりを行ってきた濱口家の当時の当主・梧陵は、銚子の町でも有力者の一人として、民衆の暮らしには常に気を配っていました。  


1858(安政5)年、コレラが大流行したとき、偶然江戸にいた梧陵は、銚子にいる医師・関寛斎に次のような緊迫した内容の手紙を送っています。『濱口梧陵傳』(広川町教育委員会)の中からその内容を一部抜粋してみたいと思います。  


「まだ銚子にはコレラが発生していないが、目下、江戸で猛威を振るっているこの悪疫は、早晩、銚子方面へも流行が拡大していくと覚悟しなくてはならない。ゆえに、流行するに先立ち、予防法と治療法を研究しておく必要がある。一切の費用は濱口家が負担するので、寛斎を急いで江戸へ来させてほしい」  この手紙を受け取った関寛斎は、一名の従者を伴って早々と銚子を出発しました。


江戸で寛斎を迎えた梧陵は、早速、当時、一流の蘭方医であった林洞海(はやしどうかい)や三宅艮斎(みやけごんさい)らに寛斎を紹介し、コレラの治療と予防法を急いで研究させます。


■ 患者の隔離で銚子での感染爆発を阻止  

梧陵の計らいでひと通りの研究を終えた寛斎は、すぐさま予防や治療に必要な薬品類、書籍等を購入して銚子に戻りました。  寛斎が戻った時には、すでにコレラは江戸から銚子にも広がり、感染が拡大しつつありました。

しかし、寛斎は罹患した患者をすぐに隔離するなど素早い対応を取り、ギリギリのところで感染爆発を食い止めることに成功したのです。まさに、濱口梧陵の先見の明と素早い動き、そして莫大な個人の費用負担によって、結果的に銚子の人々の命は救われたと言えるでしょう。  


それにしてもなぜ、ヤマサ醤油の当主がここまでのリーダーシップを発揮することができたのでしょうか。  実は、当時の銚子(下総国)は高崎藩の飛び地で、地元には出張陣屋に郡奉行1名と代官2名が派遣されている程度の知行でした。つまり、藩の力はほとんど及んでおらず、事実上、財力のある濱口梧陵のような実業家が、行政のみならず、消防まで担っていたようです。


ーーーーーーーーーーーーーー



未知の病気と闘うためには、

洞察力、勘、運、決断力、などすべてが揃わないと成功しない。


まだコレラ菌が発見もされていない、感染症だということも分かっていない時代、

人口100万人の江戸で36万人が亡くなるというパニックで29歳の医師がしたこと。


これは、極めて特殊な才能、と言った方がいいかもしれない。

現場主義に徹する町医者の中にはそんな能力を持った人がいる。


今、僕の頭にあるのは「現代の関寛斎」である。

今週、梅村先生とそんな話をしたばかり。


実は、2人で関寛斎の本を書いている。

「蘭学医 関寛斎」(エピック)→こちら



新型コロナはまだ分からないことのほうが多い。

ひょっとしたら「大どんでん返し」があるかも。


いつもそんな事を考えている。


こんな「けったいなウイルス」の正体はなんなのか?

ヒントは、「免疫システム」にあると思っている。


現代免疫学では免疫システムは「自然免疫」と「獲得免疫」に分けられている。

しかし、僕達大半の医療者は、その中間の免疫システムを使っている気がする。


敢えて命名するならば、「記憶免疫」、かな。

「ああ、お前か。よっしゃ、今から子分を呼んでくるわ」という門番がいる。


それが「制御性T細胞」であるが自然免疫の少し奥で待ち構えている。

この門番に働いてもらうには、少し「顔見せ」があったほうがいい。


つまり、ワクチンへの期待は幻想にすぎず、新型コロナには

制御性T細胞の「記憶」を鍛錬するのがベストではないのか。


そんなことを毎夜夢見ながら眠る。(すぐに電話で起こされるけど)

僕は、今回のコロナ禍を「免疫学革命」として捉えているのだけど。


その意味では、司令塔を持っている若者は暴露しても感染には至らないわけ。

一方、施設に密集し閉じ込められている高齢者は、T細胞が上手に働かない。


普段から施設入所者も屋外を(車椅子で)散歩させて、無数のウイルスに

あえて定期的に暴露させておくことで、T細胞を鍛錬しておいたほうがいい。


もちろん6冊の「歩行本」に、こんな難解なことは書いていない。

しかし僕の頭の中に常にある「歩行の重要性」とは、これなのだ。


つまり、歩行時に適度な雑踏があってもいい。(平時の話ですが)

歩行は免疫スステムを強化する。筋骨やセロトニンだけでないのだ。



いずれにせよ、関寛斎の教えは、160年経っても全く変わていないと思う。

つまり「政府や役人を頼っても意味が無い。医師が最初に動くこと」が大切


PS)


コロナチャンネル #274


認知症の人にもPCR検査? 簡単に言うな!  →こちら


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この記事へのコメント

長尾先生、おはようございます。毎日ご苦労さまです。ブログとyoutubeありがとうございます。風刺替え歌も愉快です。
さて、江戸時代にもこんな名医がいたんですね。コロナ禍で奮闘する長尾先生も、まさに現代の関寛斎です。
国会がとても気になります。感染症2類から5類への指定変更を議論しないで、罰則強化しようとして恐ろしいです。①病院がコロナ患者を受入れない場合、②飲食店が休業に応じない場合、③国民が入院命令に応じない場合、④国民が保健所に事実を伝えない場合。これらすべてに懲役又は多額の罰則を科す。こんなことがあって良いのでしょうか!マスメディア、特に視聴率稼ぎまくりのワイドショー(モーニングショー等)は、この政府の強権発動を何故伝えないのでしょうか?ひたすら感染拡大、医療崩壊と不安を煽るばかりです。モーニングショーのコメンテーターTは数百円のボーナスをGETしているそうです。腹がたちます。
コロナ禍=政府の誤った判断とマスメディアの異常報道による人災ですね。

Posted by サンリオ大好き at 2021年01月19日 06:25 | 返信

非常に興味深い記事ですね。まだウィルスは勿論、細菌の存在すら分かっていなかった時代に、こうした対策を取れた医師、そして地域があったとは。

同時に、こんな考えが改めて頭をよぎりました。

テレビは目先の視聴率ばかり、政治家(特に知事)は目先の支持率ばかりを優先してトンチンカンな方向ばっかり。大切なことは「自ら調べ、考え、判断していく」しかない。自分の身は、自分で守る他ない。

幸い昨秋以降、コロナを冷静に見つめる書籍や記事も散見されるようになっています。もちろん「コロナ禍の9割は情報災害」も、その中の貴重な1冊です。また、今回の騒動を機にウィルスや細菌、感染症に関心を抱くようになりました。こうした分野も、自分なりに調べていけば少なからぬ収穫があるかと。下らないワイドショーを見ているより、遥かに有益だとは言えそうです。

Posted by 国崎ルーチ at 2021年01月19日 06:30 | 返信

テレビをつけると台風が来るのか⁉︎…と勘違いする
なんで、あんなテロップを出すんだろう
市ごとに感染者数を流して 一般庶民に何を訴えたいのか…
訳がわからんというか あおってあおって あおりまくる歩道に怒り爆発〜!

もっと やらないけないことがあるよね…あ〜あっ(^^;;

Posted by 宮ちゃん at 2021年01月19日 10:50 | 返信

日本の病院(多くは中小の医者数の少ない民間病院)はベッド数は全部足して世界一でも、専門医(集中治療・感染症・呼吸器)や専門看護師・工学士が足りないので重症コロナが診れないようです。
足りないのは「ベッド数」ではなく「医療従事者」です。患者1人に対して20人必要?と言われる。
重症コロナ担当可能な医療従事者の確保は容易ではなく、医療側は「感染者数を減らすしかない」と言う
感染者数を減らすには社会と経済を止めるしかなく、この繰り返しではどんどん人心は疲弊していく。
流行期に感染者数を減らすのはほぼ不可能で、早期介入で重症者数を減らす事を考えるのが大事では?
地域の医者が発熱・感冒症状患者をすぐ自宅や施設を訪問して診療、抗原検査、血液検査、投薬をした上で看護師に指示して経過観察。勿論、その際、医者には点滴・投薬の裁量を与える。
また中高年持病者と高齢者はリスクの高い外来受診は一切やめさせて、オンラインか訪問に切り替える
この緊急事態に病人を外来に受診させるという事自体がリスキーで本末転倒ではないかと思います。
「発熱外来」はやめて「発熱往診」を国家で標準化して十分な診療報酬を与えるべきです。
「緊急事態」と医師会が喧伝するのであれば、まずそのようなシステムを突貫で構築すべきでしょう。
普段、生活習慣病で通院しているのに、発熱したらウチでは診れません??何のためのかかりつけ??
一部の医者だけが発熱外来を担うという、個人責任丸投げ体制では乗り切れるはずもないです。
毎年桁違いに多いインフルエンザで医療崩壊しないのは、開業医が防波堤になっているからです。
今は例えれば防波堤が決壊して、ひどい水害になっているような状況ではないでしょうか?

Posted by マッドネス at 2021年01月19日 11:15 | 返信

まったくそのとおりです。
九州の田舎でも東京の「本日の感染者数」がニュース速報で流され続けています。
正直そんな情報いらねえし!
将来ニュース速報が「狼少年」になりかねません。
おまけにサイタサイタを言いたくてしょうがない。
さくらの季節じゃあるまいし。
元首相の批判なんかできませんぜ。
最近はサイタが更新されないので過去〇番目とかの表現が増えてますけど(笑)

ふーから宮ちゃんへの返信 at 2021年01月20日 08:20 | 返信

脳梗塞退院後3年目の内頸動脈エコー検査は「変化なし」だった。気になっていた入院時の椎骨動脈のことを訊いたら、「片方が詰まっていたがもう一方で支障なし」とのことだった。入院中、「平衡感覚だけすぐ回復したのはその『もう一方』が活躍したから」かなと言い聞かせる。やはり朝夕、野外「棒太極拳」は欠かせない。次回は半年先の頸部MRI検査となった。ドクターの大型パソコンを覗くと、「オリンピック大型連休」の直前!だった。

帰宅して、読者のみなさん怨嗟の「羽鳥モーニング」ビデオを早送りしてみた。
羽鳥・・・「コロナ専門病院」は、国主導でできないか?
二木・・・1波から言っているが、大規模施設を造る。たとえば東京オリンピックの選手村を活用する。
玉川・・・厚労省管轄で、がんセンター、循環器病センター、精神神経医療研究センター、成育医療研究センター、長寿医療研究センター、国際医療研究センターがあるが、国際医療研究センターは「感染症にかかわる医療を提供する」国立病院なのにコロナ患者は中等症30人重症9人しか受け入れていない、病床701床・ICU10床・HCU16床もあるのに。

長尾先生提唱の「コロナ病院」だ。二木、玉川案は「煽り」というより「長尾提案」そのものだ。東京オリンピック中止は「今」だ。今決断すれば、日本を、世界を救う!

Posted by 鍵山いさお at 2021年01月20日 05:34 | 返信

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