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平常心の勝利
2024年08月06日(火)
なにかと混迷中のこのご時世。
いろいろと慌てたり怯えたり。
一喜一憂するのが人の常かも。
こんなご時世だからこそ、
一喜一憂しないことが大切では。
ありふれた言葉だけども、
「平常心」が大切だと思う。
「平常心の勝利」という言葉を信じたい。
以下、ヨロンさんのメルマガから転載。
大好きな大塚耕平さんの記事の一部だ。
ヨロン氏メルマガ(元・勝谷誠彦メルマガ)は
毎日配信で月額、660円なので1日20円だ。
いろんな日替わり論客が記事を書いている。
僕は10年以上、このメルマガを愛読している。
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三耕探究(第201回) 平常心の勝利
大塚耕平(早稲田大学客員教授・藤田医科大学客員教授)
今は8月1日(木)午後9時、名古屋の事務所でPCに向かっています。早いもので8月。今年もあと5ヶ月になってしまいしました。 パリ五輪が始まりました。日本選手の活躍は悲喜こもごもですね。柔道阿部詩選手の号泣で始まり、昨日は体操男子の岡慎之助選手が金メダル。 僕はバレーボール経験者(一応、春高バレー愛知県決勝戦進出)で、今も愛知県バレーボール協会の会長を務めています。
男子バレーは昨日のアルゼンチン戦に勝利。次の米国戦、何とか頑張ってほしいものです。 昔のスポーツ選手はインタビューのマイクを向けられると「無欲で臨みます」「平常心で戦います」と答える人が多かった気がします。 「平常心で戦います」という表現は「普段どおり」「力まない」「緊張しない」というような意味ですが、「平常心」は仏教用語です。
仏教用語的には「びょうじょうしん」と読みます。 「平常心」は「善悪を区別しない」「こだわりのない」心を指します。「勝つことが善い」「勝ちが全て」と思い込まない心、「勝利にこだわらない」「勝ちたいと思わない」心が「平常心」です。「欲」に囚われない心が「平常心」であり、まさしく「無欲」です。
「勝利にこだわらない」と言っても、それは「勝利」を得たいからこその「平常心」です。
「平常心」が仏教用語なら、実は「勝利」も仏教用語です。 日常用語としては「勝ち」を表す言葉ですが、仏教用語的には「仏様からの勝(すぐ)れた利益(りやく)」という意味です。 「勝利」すれば、その一方では必ず「敗北」があります。誰かが勝つことは、誰かが負けること。
「悲願の勝利」という言い方をしますが、嬉しいはずの勝利が「悲しい願い」というのは何だか変ですよね。この「悲願」も仏教用語です。 誰かの「勝利」や「悲願」の一方で、必ず誰かの「敗北」があります。他人の悲しみを感じられる心、負ける人がいてこそ自分の勝ちもあることを理解する心、自分をとりまく全てのことに感謝できる心。その大切さを説いているのが仏教です。
仏教用語としての本来の「勝利」は「勝(優)れた」「利益(りやく)」つまり「仏様からの慈悲や加護をいただくこと」です。仏様からの慈悲や加護をいただくと「ああ、目には見えない何かに救われている、守られている」という感謝の気持ちが湧いてきます。それが「覚(悟)り」の境地です。 「勝利」とは「覚り」のこと。仏教では「覚り」を得ることが「勝利」なのです。
自分が得をしたとか、勝負ごとに勝ったことが「勝利」ではありません。 ちなみに「悲願」は「阿弥陀仏の本願」。つまり、人間が「覚り」を得て救われることを阿弥陀仏は願っていますが、人間が人間である限り「欲」や「業」から解放されて「覚り」を得ることは難しく、かなわぬ願いだから「悲しい願い」なのです。 自分の夢や目標が達成される時、つまり試合に勝つ時には、誰かが負けているのです。人の痛みに思いが至るようになるとともに、何かの目標を達成できることは、多くの人に支えられ、目には見えない何かに守られてそれが達成されていることを理解すること、それを「覚る」ことが、仏教における「勝利」なのです。
一方、最近の若いスポーツ選手は「絶対に勝ちます」「負ける気がしません」「自分が決めます」等々、昔の選手に比べると自信満々の受け答えをする人が増えたような気がします。 昔だったら「そんなホラを吹いて」と言われそうな発言ですが、有言実行だから凄いですね。この「ホラを吹く」という表現も仏教用語です。 「螺(ホラ)」とは巻貝のこと。
大きな巻貝に穴を開けて音を吹き鳴らす道具が「法螺(ほうら)」です。やがて短縮されて「ホラ」と言うようになりました。 法螺を作る巻貝が法螺貝。サンスクリット語で「サャンクハ」と言います。古代インドでは戦場の出陣の合図として「法螺」が使われました。 シルクロードを経て唐に伝わった法螺を密教僧が日本に持ち込みました。主に真言宗や天台宗の法会で使われるようになり、やがて東大寺のお水取り(修二会)でも吹かれるようになりました。
山伏の携える道具としても浸透し、山中で吹けば野獣を追い払い、魔を退けると信じられました。 お経にも登場します。無量寿経には「法鼓(ほっく)を扣(たた)き、法螺を吹く」、法華経にも「大法螺を吹き、大法鼓を撃ち」と記されています。大無量寿経では、お釈迦様が衆生(人々)に教えを説く場面に「法螺を吹く」という表現が出てきます。 すなわち「法螺を吹く」とは本来「仏の説法」のことを指します。説法の場に人々を集めるための合図として法螺貝を吹いたことに由来します。
法螺貝の音を聞いて集まってみたものの、法螺を吹いたお釈迦様の弟子たちの話は大したものではありませんでした。「お釈迦様のように偉そうにものを言う」という意味に転じ、やがて「嘘をつく」という含意になったそうです。 本来「法螺を吹く」のはお釈迦様。弟子や衆生(人々)がホラを吹く、すなわちお釈迦様の説法を真似て立派なことを語っても実行が伴わないのが常。そういう文脈でも「ホラを吹く」は「ウソをつく」を意味しました。
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まあまあ、僕のような小市民は、
平常心を保つように心掛けたい。
と言いながら、思うよう事がにいかないと
思わず「ふざけんな!」、と叫んでしまう。
僕のような凡人には、煩悩は尽きないようだね。
PS)
映画で福島県に来ています。
関東よりも少し涼しいです。
スナックをハシゴしています。
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この記事へのコメント
甘いお菓子をたくさん食するのは良くないと思います。特に白砂糖はよくないらしい。
でも黒砂糖を食べるとミネラルが豊富なので、沢山食べたいと「脳」が思わないそうです。
以前大阪鍼灸専門学校の付属診療所の所長をしてくださって、後に県立尼崎病院の東洋医療研究所の所長になった長瀬千秋先生が、あんまマッサージ師に講演会で仰っていました。
実際に、和菓子に黒砂糖が使われていると「おいしい!」と思います。サッカリンとか人工甘味料が使われていると「まずい」と思います。
Posted by にゃんにゃん at 2024年08月06日 03:24 | 返信
大塚耕平さんの仏教語解釈! 恐れ入ります。
日本は「八紘一宇の神国」などと威張る人もいますが、日本語の伝統の中にいかにヴェーダ文明が漢字を介して「和風化」されているか。「正倉院文化」とも称されることもありますが、東洋思想の大河が極東ヤポネシアの森羅万象にいかに溶けこんでいるか。言い得て妙です。かくいう「妙(サッ)」とは?・・・と果てしない。
「島国文化」を世界に「唯一無二の○○」と神格化するなどは、ろくなことはない!
Posted by 匿名でごめん at 2024年08月06日 02:49 | 返信
こんにちは。
明日7日に、東京地裁で、HPVワクチン薬害訴訟があります。
午前9時半の傍聴整理券の抽選。
>HPVワクチン薬害訴訟 全国弁護団
@HpvvLawyer
明後日2024年8月7日㈬東京地裁にて原告本人尋問が行われ
ます。原告27番、32番、52番さんの3名が法廷で自身の被害を
訴えます。是非大勢の方に傍聴にお越し頂き傍聴席で原告の
証言に耳を傾けてください。
以上、お知らせしました。
Posted by たまねこ53号 at 2024年08月06日 03:01 | 返信
かずくん、お疲れ様です。
終わりのない風は
怪物を生み出して
帰る家がないと泣いている
風はどこかで生まれて
どこかで消えていくけれど
僕たちは帰る場所が分からない
終わりのない風は
怪物を生み出して
牙だらけの口で噛みついている
風はどこかで生まれて
どこかで消えるけれど
僕たちは満たされず泣き喚く
終わりのない風は
怪物を生み出して
絶望の夜の宴を過ごしてる
風はどこかで生まれて
どこかで消えるけど
僕たちは醜い儚い夢をみる
そこに優しい君がいて
怪物を見つめるとき
見たことない光の眩しさが
宴の終わりを告げる
終わりのない風は
怪物たちを生み出して
あらゆる世界を破壊し
宴の皿に乗せて
涙の水を飲み干すけど
ほほ笑みが光に変わり
怪物たちを照らすとき
最後の時が訪れる
最後の時が訪れる
風はどこかで生まれて
どこかで消えるけど
僕たちはまだ知らない
朝の気配を感じてる
かずくんのブログに、時々仏教用語は登場しますが、本来の意味と使われ方が反転してる場合が多くて、この意味と使用の逆転現象って面白いなあ、と読んでいていつも思います。
私が知っている仏教とは「あのスタイル」しか思いださないので、お相撲さんを見て喜ぶレベルに近いのですけど、宗教も言葉という記憶の貯蔵庫で引き継がれて、感情に溺れそうになる人たちを時々助けてくれる。
お盆はほとんど時間が取れないので、今日は先に挨拶周りに行って来ました。
訪ねてお話しただけなんだけど、眠たいし疲れました(笑)
途中で目が覚めて、コメントもやっと書けて良かったです♪
映画撮影はそろそろ最終段階に入るのかな…。バスで大移動しながら、短期間で撮影するのは想像がつかないけれど、最後まで無事撮り終える事が出来ますように。
凄く眠いので、これ以上もう書けません(笑)
同じ店に、関係者が集まって来た話は不思議だけど、これもかずくんの定番化している話題ですね〜(笑)
それでは寝ます(笑)ごめんなさい。
今日も、お疲れ様でした。
Posted by 白夢 at 2024年08月08日 03:19 | 返信
テレビドラマの「虎に翼」で、地方の有力者のお嬢様が、「何故人を殺してはいけないのか?」と、問い詰める場面があり、時により、怖い少女がいるなあと思いました。アメリカ映画でも「悪い種」という映画がありました。見かけは頭の良い、美人の少女なんですけど、裏側で物凄い悪いことをする少女がいて、大人が皆翻弄されるという筋書きでした。結局その少女は最後に何かをしようとして雨の降る夜に、池のボートに乗ってどこかに行としたのですけど、雷がその少女の直撃して亡くなります。私も昔の事を思い出しますと、祖母が、自分の姉の夫が弁護士であることを誇りにして、うっかり不動産屋の口車に乗って詐欺被害にあった時、有能な弁護士に頼んで、家と土地を取得しました。そこへ祖母と娘夫婦である私の父と母と私も住むことになったので、不動産屋は知りませんけれど、その土地を戦後大地主さんから土地開放で手に入れた小作人の人の娘に意地悪されました。近所の交番所の娘さんとも仲良く遊んで貰っていたのですけど、ある日日頃仲良くしていた坊っちゃんだけが意地悪されて、その犯人が私だと言う事にされて、母の言いつけで庭の滑り台の上で日が落ちても家の中に入れてくれなくて泣いていました。結局その泣かされた坊ちゃんのお母さんが「にゃんにゃんは関係ないですよ」と言ってくれたので無罪放免になりましたけれど、今となっては真相は分かりません。海の近くに引っ越していた時、久しぶりに交番所の娘さんと遊ぼうと思ったら、近所のおうちに赤ちゃんを私が背負えというので、背負うと、その赤ちゃんを畳の上に置けというので「置いてよいの?」と聞くと「いいのよ。早く逃げよう」というので逃げました。その後その赤ちゃんのお母さんにばったりであったら、「貴方がうちの娘を畳の上に置いて逃げたと交番所の娘さんから聞いた。あんたは悪い子供よね」と言われて驚きました。ボーっとしている私が悪かったのですけど、それまで交番所の娘さんが悪い人だとは思いも寄らない事でした。アメリカ映画「悪い種」を観たり、テレビドラマの「虎の翼」の森口美佐江さんもお父さんが地方の実力者で、お母さんかだれかの家庭環境が悪いのか僻んだところもあるし、寅子さんが、会いに来た祐実ちゃんを抱きしめた気持ちは痛いほど分かりました。私の母も、もっと私の友達に興味をもって注意してほしかったと思います。性格異常と言うのは、本人も気がつかないところが、原因でいろいろな性格に育つのであろうと思います。
Posted by にゃんにゃん at 2024年08月10日 04:37 | 返信
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