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関寛斎100周忌
2012年10月15日(月)
北海道陸別町のはずれの丘にある関寛斎のお墓の前からだった。
午前9時から没後100周忌の記念行事が始まろうとしている。
享年82歳。
関寛斎は、司馬遼太郎が最も尊敬する医者。
おそらく日本のお医者さんのなかで最も凄い人。
梅村さんとの共著「医の魂、蘭学医・関寛斎」が役所に
山積になって売れれているという。
この本は、とてもいい本。
多くの方に読んで頂きたい。
http://www.amazon.co.jp/%E8%98%AD%E5%AD%A6%E5%8C%BB%E3%83%BB%E9%96%A2%E5%AF%9B%E6%96%8E%E2%80%95%E5%B9%B3%E6%88%90%E3%81%AB%E5%AD%A6%E3%81%B6%E5%8C%BB%E3%81%AE%E9%AD%82-%E6%A2%85%E6%9D%91-%E8%81%A1/dp/4899851634/ref=sr_1_4?s=books&ie=UTF8&qid=1350258952&sr=1-4
梅村さんは、関寛斎の5代子孫。
偶然とは恐ろしい。
17歳年下の梅村さんと知りあうことで、関寛斎という医聖を知ることができた。
ありがたいご縁の感謝。
今日は特別な日。
2年前の今日は、私も98回忌に参加していた。
このブログに書いた。
http://blog.drnagao.com/2010/10/98.html
前日の分も読んで欲しい。
尼崎からお祈りと感謝を捧げる。
今日から、三重大学の研修医が2週間来ている。
今週も頑張ろう。
関寛斉先生の生誕地の千葉県立東金病院院長 平井愛山先生も参列して
その報告記をフェイスブックに書いておられるとのこと。
平井先生の投稿を転載します。公開されているものです。
見事なダイジェスト版になっています。
きっとNHKの大河ドラマになると思います。
「今日は、東金に生まれた蘭法医で、幕末から明治に活躍した関寛斎の没後100周年の会が、関寛斎が開拓した北海道は十勝の陸別町でひらかれ、遠路参加しました。陸別訪問は、今日が3系目です。
関寛斎は、小生が敬愛する幕末の医師群像の一人で、地位や名誉にはなんの未練もなく、チャレンジャー・開拓者として多くの人から敬愛され、司馬遼太郎の『胡蝶の夢』の主人公としても有名です。
寛斎は、幕末に佐倉順天堂で佐藤泰然の下で最新の外科を中心とした蘭医学を学び、ついで長崎留学ではポンペに師事し、佐藤泰然の次男で、ポンペの一番弟子であった松本良順と兄弟弟子になります。
この長崎留学の成果のひとつが、当時の最新の医薬品を紹介した『七新薬』という本です。この本は、とても好評だったそうです。
その後、寛斎は徳島藩の御殿医に迎えられ、戊辰戦争では、官軍の大村益次郎に、外科医としての技量を高く評価され、会津攻めの官軍の最前線病院(奥羽病院)の病院長として活躍します。
その頃の部下に、後に東京慈恵医大を創設した若き日の高木兼寛がいました。
この会津戦争では、兄弟子であった松本良順は会津藩についたため、敵味方に別れてしまいました。会津若松が落ちたため、良順は官軍に捕らえられ、獄につながれます。
一方、寛斎は、官軍からの軍医のトップを要請されましたが、それを辞退して徳島に戻ります。そして、兄弟子の良順の嘆願運動の先頭に立ち、その甲斐あって良順は後に釈放されました。その後、本来ならば、寛斎がつくはずであった、初代の陸軍軍医総監を良順が引き受けることになるのです。
その後、寛斎は、徳島藩の御殿医を辞して、一開業医として徳島の地域医療に貢献し、なんと72歳になった年、長年の夢であった新たなまちづくりを目指して、徳島の私財をすべて売却し、一家をあげて北海道は十勝の奥陸別の地に入植し、関農場を開きました。
陸別は、北海道でも旭川と並んで極寒の地として知られ、2月はじめには、氷点下28度くらいになります。寛斎は、この厳寒の地で、あらたな町作りと共に、理想の地域医療を目指し、82歳の10月15日、この陸別でその激動の生涯を終えました。
陸別には、寛斎を顕彰する市民の会があり、旧陸別駅を改修した関寛斎記念館には、長崎留学当時の日記や、奥羽病院の日誌や病院旗など寛斎関係の貴重な資料と共に、司馬遼太郎の『胡蝶の夢』のオリジナル原稿全編が保存されています。
寛斎の埋葬地は、ずっと不明だったのですが。顕彰会の方々が、地元の言い伝えなどを下に調べた結果、6年前に関農場を見下ろす小高いの岡の中腹にこんもりと盛り上がった土饅頭が見つかり、近くから見つかった目印の杭が決め手となって、寛斎の終焉の地が確定しました。
午後1時からのセレモニーに先立って、関寛斎顕彰会の二代目会長の北村国義さん(97歳)のご案内で、寛斎の埋葬地にたたずみました。矍鑠とした北村さんから、埋葬地発見の経緯を詳しくうかがい、はるかに阿寒の山並みを眺めていると、寛斎が、ここを終焉の地にしたことが、すとんとこころに落ちました。
東金からこの陸別まで、寛斎の足跡を訪ねる長い旅は、ようやくひとつの節目になったようです。」
引用終わり
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